東京五輪で韓国女子アーチェリーの選手が、ショートカットであるだけで「フェミニスト」としてバッシングされているという記事を見ました。ショートカットであるだけで「フェミニスト」と認定するのも疑問ですし、「フェミニスト」だったとしてもバッシングする理由にはならないのに、韓国社会の女性の生きづらさを垣間見たような気がしました。

最近、Netflixなどの影響で韓国ドラマが再ブームとなっており、韓国社会の実態やジェンダー観をあわせて解説する著作も出ています。治部れんげ・著『ジェンダーで見るヒットドラマ』では欧米、日本のドラマとともに6本の韓国ドラマを解説。また日本でも大きな話題になった「愛の不時着」だけを扱った黒田福美・著『「不時着」しても終わらない』も、韓国文化や韓国語に精通した著者の解説が興味深いです。

でも、ドラマの中でときに見られる、旧来型のジェンダーステレオタイプにしばられない登場人物の在り方は、実社会に根差す古い考え方の裏返しかもしれない、とも感じます。韓国は女性の就労率や男女格差の点で日本と共通する問題も多く、女性の生き方についてはチョ・ナムジュ著『82年生まれ、キム・ジヨン』なども日本の多くの女性に読まれました。

 

最近出版された柳采延さんの『専業主婦という選択 韓国の高学歴既婚女性と階層』では、韓国では2000年以降、高学歴の女性が、高学歴だからこそ専業主婦になり子どもの教育にあたっているという現象が指摘されています。

柳さんが新聞記事や雑誌記事等を分析したところでは、1990年代の韓国では働く女性は義両親からも好意的に受け止められ、家事が免除される様子もあったそうです。しかし、2000年代にはむしろ家事は外注したとしても、教育は母親が自ら担うように。子どもの教育にはホワイトカラーの管理職のような、いわば職業的な価値が見いだされていったということです。

日本では高度化した家事に価値が見いだされる議論がたびたびおこなわれているのに対し、韓国では家事をいくら極めても能力とはみなされない。その中で、教育には価値があるとみなされ、高学歴の女性の間に「専業主婦イデオロギー」が広がっているそうです。

従来は自己犠牲的に描かれがちだった「母」は、ここではむしろ自己実現として選択される。そして女性たちは「嫁」「妻」の立場から逸脱し、自律的な存在として肯定されていくというのです。自律的に自己実現をしていくこと自体は良い事だと思います。

ただ、柳さんの研究は新聞や雑誌に基づく言説分析であり、韓国の女性たちの生の声が聞こえてくるわけではない。それゆえかもしれませんが、私はこのように全力の承認欲求が子どもに向かってしまうことを、ちょっとグロテスクにすら感じてしまいました。

韓国ドラマでも母親の姿は強烈に描かれがちですが、この話では、まさに子の有名私立大医学部合格のため血眼になる「SKYキャッスル〜上流階級の妻たち〜」の親たちを思い出します。『専業主婦という選択』の中でも、いくら自律的で「嫁」「妻」から脱出することができても、その役割は家父長制内にとどまると指摘されています。

BTSやBLACKPINKなど世界的コンテンツを発信できるようになった韓国、その一方で時折垣間見える旧来的な価値観……。日本は五輪開会式で「コンテンツ」の発信そのものでかなりつまずいた印象がありますが、似ているようで少し異なる韓国は、我が身(国)を顧みる良い映し鏡になると思います。

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