期待と失望
「玲菜の学資保険の受取人、有希に変更したいんだ。手続き、二人で行かないとダメらしくて。ほかにも最後に細かい手続きがあるし、近々有休取れる日あるかな? あと今度の日曜日、玲菜と会えれば」
「……あ、うん、スケジュール確認するね」
返事をしながら、有希はこの期に及んで少しだけ違う話を期待していたことを思い知った。
そして、誠意があるからこその保険受取人変更も、もう良平が次のステージに行くためのしがらみを整理しているように感じてしまう。
「元気にしてたか? 玲菜と会うのも久しぶりになっちゃってごめん。なにか……困ってることない?」
「大丈夫、何もない。玲菜も元気に保育園に行ってくれて助かってる。良平はどう? 新しいマンション、落ち着いた?」
有希はさりげなく水を向けた。住所から検索してしまった良平の新居は、広々とした1SLDK。一人で住むには少し、広い。
「うん、有希の社宅みたいに駅近じゃないからさ。慣れないよ」
「……彼女と一緒に住んでるの?」
するりと出た言葉は、以前なら飲み込んだ言葉だったかもしれない。「面倒な女」になることを何よりも、恐れていたから。昼下がりの公園のレジャーシートの上、玲菜はシャボン玉に夢中というシチュエーションが味方した。
「……うん」
「そっか」
それは確かに、離婚届けを提出するよりも、別れを痛感させる瞬間だった。
二人の人生はもう交わらないと、今はもう、お前の代わりを見つけたのだと、突き付けられた気がした。
「有希、こんなことになって……ごめん。ずっと謝りたかった。
俺いろいろ理屈こねてたけど、淋しかったんだ、多分。有希はいつだって強くて、正しくて、頑張り屋で。俺は……勝手に存在意義を見失って、逃げてしまった」
「パパーこっち! きてー! 来てほしいのーこっち!」
玲菜が少し離れたところから良平を呼ぶ。反射的に良平は笑顔で応え、急いで立ち上がった。
そういう男なのだ。必要とされ、頼られた瞬間、それに応えようとする。仕事よりも愛に重きを置き、パートナーの「期待」に応えたい男。
長い付き合いで誰よりも知っていたはずなのに、伝え方を間違えてしまった。
有希が最後に良平を無邪気に頼ったのは、愛してると言ったのはいつだっただろうか。確かに良平の存在に救われていたのに、それを伝える努力をしなかった。
「有希、都合がいいかもしれないけど……玲菜の人生に責任があるのは俺も同じだから。そこは頼ってほしい。なにか困ったことがあったらばすぐに相談して」
良平はそれだけ言うと、玲菜のところに駆け寄っていった。
有希は、うん、と小さく頷く。今はまだ、それが精一杯。でも、「浮気」を許せないと恨み続けるよりも、それが避けられない「心変わり」だったのだと思うことが、ようやく有希の心を落ち着けた。
どちらか一方だけがすべて悪いわけじゃない。人生も心も、流れていくのを止めることはできない。
有希はその日、時間をつぶしにいくことなく、久しぶりに穏やかな気持ちで二人を眺めていた。
◆
翌週。有希は前向きな気持ちで仕事に没頭していた。
何が変わったわけでもないが、少しだけ、体のこわばりのようなものが取れてきた感覚がある。
「麻衣ちゃん、お疲れ様。今日、遅めの時間になっちゃうんだけどランチ一緒にどうかな? 話したいことがあって」
「承知しました、じゃ、なるべくゆっくり話せそうなお店がいいですね! 予約入れときます」
帰国子女で20代の麻衣は、ドライに見えて意外に人懐こいところがある。有希は気を遣ってあまりお昼を一緒にしてこなかったが、これからはときどき自分から声をかけてみようと思った。
そのためには、まず、すべてを洗いざらい話してしまうことだ。有希は決心していた。
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