ターニングポイント
◆
ビストロで食事を終え、コーヒーを待ちながら本題に入ろうとしたとき、またしても有希のスマホが振動した。
「有希さん! 大変、保育園て出てます」
「うそ!? ありがとう」
慌ててテーブルの上をスマホを掴んで、店の外に出る。玲菜が腹痛を訴えていて、至急迎えが必要とのことだった。
――よりによって、今日…。午後はシアトル出張前の全部署擦り合わせ会議なのに……。
有希は絶句する。現場が、社長や役員に説明する趣旨を考えても、チームリーダーの有希の不在はあり得ない。
「有希さん、玲菜ちゃんどうかしましたか?」
席に戻ると麻衣が察して心配してくれる。
「あ……うん、具合が悪くて急いで迎えに来てっていうんだけど、ちょっと……ほかに家族がいなくて、困ったな……」
良平に訊くしかない。しかし、たしか今週は営業本部ではなく、栃木の工場にいると言っていた。
「午後の会議、有希さんは抜けられないですしね……。あ、それじゃ、私行ってきますよ。今日、じつは朝7時から出社してて、フレックスだからもう退社できるんで」
「え? は? 麻衣ちゃんが? お迎えに? いやいや、何言ってるの、そんなの頼めるわけないでしょ!」
有希は焦って頭をぶんぶんと振った。誰に頼んだとしても、同僚の、しかも子どもがいない若い女の子にお迎えを頼むなどという選択肢はない。それは同僚にかけていい迷惑の範疇を超えている。何せ、プライベートのことなのだ。
「ええー、でも、有希さんいつも言ってるじゃないですか、困ったときは何でも言ってね、私がなんとかするからって。有希さん、今間違いなく困ってますよね? だから私行きます」
「いや、そりゃそうだけど、それは仕事で困ったときよ。子どもの世話なんて頼めないって。……あのね、じつは私、半年も前に離婚したの。今まで黙っててほんとにごめんなさい。それで、ちょっと、シアトルも行けそうもなくて、麻衣ちゃんに迷惑ばっかりかけて……。だからこんなのは自分でなんとかしないと」
早口になってしまった。どさくさ紛れみたいになってしまった。でも、タイミングを計ってうまく伝えるよりも、今、言いたいと思った。
「ああ、そのことなら知ってます。空港の制限区域立ち入り申請のとき、今までは旧姓じゃなくてパスポートネームにしてたけど、この前旧姓のままでしたよね? だからああ、離婚されたんだなって」
「し、知ってたの!?」
思わず声が裏返る有希に、麻衣けらけらと笑った。
「有希さーん、多分だけどチームのみんな知ってると思いますよ」
すっかり力が抜けて、有希はビストロのテーブルに突っ伏した。
なんて恥ずかしいんだろう。右往左往して、さぞ滑稽だっただろう。部長や課長も、はやく報告しろよと思っているに違いない。
知ってて、知らないふりをしてくれていたのだ。
「それより、今日の会議だけは有希さんがいないと。シアトルだって、何か方法、あるんじゃないんですか? 元ご主人に相談してみました? 全部ひとりで抱え込んだら倒れちゃいますよ。
とにかく、私玲菜ちゃん迎えに行ってきます。同じ社宅でよかった、駅前の保育園ですよね? 引き取ったら、具合次第で病院連れていけるし、落ち着いてたらうちで安静にさせておきます。会議が終わったら来てください。念のため、玲菜ちゃんの保険証お預かりしてもいいですか?」
有希は、麻衣が当然のように助けてくれることとその手際に、心底驚いていた。
「麻衣ちゃん、ほんとありがとね。でもやっぱり、子どもを連れて帰ってもらうなんてそんな迷惑かけるわけには……」
「一生に一度あるかないかの社長の臨席会議に、この緊急事態ですから。それに有希さん、何でもそんな杓子定規に線引きしなくても大丈夫ですって。子どもがいると身軽な独身に頼っちゃいけないっていう法律でもあるんですか?」
麻衣はにこにこ笑って、「困ったら、助け合っていきましょう、仲間なんですから」と繰り返した。
ずっと、頑なに信じていた。
結婚して、子どもがいる身で男女の区別のない仕事に就いているのだから、女や母を理由に、絶対に男性や独身の後輩に迷惑をかけてはいけないと。ましてやプライベートを持ち込むなんて言語道断。
でも実際は完璧な人間になることはできないし、人生には容赦なくハプニングが起こる。
「じゃあ、有希さん保育園に連絡入れといてください。緊急だから代理人が行きます、って言えば大丈夫ですよね」
いつの間にか運ばれてきたコーヒーを一気に飲むと、「あつっ」と言いながら麻衣は伝票を掴んだ。
「麻衣ちゃん……スゴいわ、全然かなわない……本物の世代格差を感じる」
有希が思わずつぶやくと、麻衣は「なんですかそれ!」と、笑った。
とても軽やかに、鮮やかに。
後輩の前で、完璧なお手本にならなくてもいい。迷いながら、手探りで、力を借りながらそれでも歩くのをやめなければ、きっと。
受け取った善意を、力を、必ず仲間に還元しよう。
意味のない思い込みは捨てて、もっと心を開いて、強くなる。
有希は気合を入れて、立ち上がると、麻衣と一緒に歩きだした。
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