「風っぽいかどうか」という思考法がはらむリスク

 

また、この時代の変化を世界の人々が感じているからなのか、文化人・論者・アーティスト等々が各メディアで持論を展開。結果、アフターコロナ、ニューノーマル、ポスト資本主義等々、新しい時代論やそれを表す言葉が多く生まれてきています。

そうやって、新時代のアウトラインが徐々に醸成されてきているのを肌で感じる昨今ですが、ただ、その論調自体に疲れたり、食傷気味になっていたりという話を耳にすることがあるのもまた事実。

 

一星読みとして、風の時代はそれぞれが個性を発揮して生きやすくなっていく時代であると思っています。そのため、まずは自分の主義主張をはっきりさせる、自分とは何かを深掘りして見つけていくことが大事であるというのは常日頃説いている通りなのですが、その“自分と向き合う”という行為は実は風らしい行為でもあるので、どうしても今まで通りのルーティーン、マインドセットを持つ人たちには歓迎されづらいものなのかもしれないとも思うのです。

また「風の時代」にまつわる本を2冊書いている立場でこんなことを言うのも自己矛盾感があり、変かもしれませんが、ある物事が“風っぽいかどうか(風の時代様式であるかどうか)”という思考法はひとつの雛形に人々をはめることに繫がるリスクがあるので、それこそが“土の時代の呪縛”の表れの一種であるとすら言えるかもしれません。

そのため、新著『風の時代の未来予測』でも“〇〇でなければならない”といった枠を提示することは極力控え、風の時代の、特に初期には非常に重要なテーマでもある“多様性”を意識した表現を多く用いています。