テストや通知表がなく、子どもが好きな授業を選べる小学校が開校するというニュースが話題となっています。学校の順位付けについては、以前から賛否両論がありますが、果たして順位付けは必要なのでしょうか。

 

日本の学校では、多くの分野で順位付けが行われており、勉強やスポーツにおいて自分が何番なのか、常に意識する必要がありました。偏差値教育に対する批判が高まったことから、最近では明示的に順位を示すことはしなくなりましたが、基本的に入学試験はペーパーテストの点数で決まるので、見えにくいようにしていても、現実に順位付けは存在しています。

こうした順位付けについては、以前から賛否両論となってきました。過度な順位付けが精神面によくない影響を及ぼすとの考えから、徒競走などでも全員が1番というような扱いをする学校もあるようです。一方で、競争させなければ子どもは伸びない、社会に出れば常に競争なので、小学校の段階からそれに慣れさせておく必要がある、といった理由で、順位付けを強く望む意見もあります。

社会において競争がなくならないというのは厳然とした事実ですから、むやみに競争を否定したところで、建前論になってしまうというのはその通りでしょう。しかしながら、昭和の時代と同じように、学校のテストも徒競走も、全員が同じゲームに参加し、1番からビリまで順位を付けるというやり方は、そろそろ時代に合わなくなりつつあります。

昭和の時代までは、とにかく何でも丸暗記すれば、たいていの問題に対処できました。ゲームのルールは単純そのものですから、とにかく競わせて頑張らせれば、それなりの成果を得ることができたわけです。結果として、全員参加の順位付けが標準的になったものと思われます。

しかしデジタル化が進んだ今の時代においては、単純な知識であれば“ググれば”事足ります。丸暗記していることの価値は、以前と比較して激減したといってよいでしょう。

むしろ、すでに存在している異なる知見を組み合わせたり、見方を変えることによって新しい価値を生み出すなど、いわゆる創造性が重視されるようになってきました。ビジネスの世界でも、単純にモノの販売数量を競うのではなく、ゲームのルールを変えてしまったり、発想を逆転させるといったやり方で、まったく新しい市場を開拓する方法が注目されています。

このような新しい時代においては、単純なルールで競わせているだけでは、十分な成果を得ることができません。というよりも、新しい時代は全世界的に競争が激化しており、どのようなルールを作るのかという部分ですら競争環境にさらされているのが現実です。昭和の時代までは、誰かが作ったルールの中で高得点を取ればそれで事足りたのですが、今の時代においては、他人が作ったルールで競争する段階で「負け」になってしまうのです。

つまり、競争がなくならないどころか、抽象化が進み、さらに複雑になっているというのが現実です。筆者は競争自体を否定するつもりはありませんが、他人が作ったルールを何の疑問もなく受け入れ、その中で点数を競うという昭和的な競争の発想は、そろそろ捨て去るべきだと思います。

 
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