ほとんどのコロナ対策の専門家が、(現実に実行するのかは別にして)外出を抑制することが最大の感染防止策であると認識しており、それは尾身氏も同じはずです。日本の場合、ブースター接種が諸外国と比較して遅れているという現実もありますから、なおさらでしょう。
もしそうであれば、専門家はあくまでも専門家として科学的見地から意見を述べることが重要であり、その主張は、感染症の専門家であれば「人流抑制が必要」という内容に、経済の専門家であれば「人流抑制を行うと経済へのダメージが大きくなる」という趣旨になるはずです。
科学的事実が出揃い、2つの命題が相互に対立するものであれば、あとはリーダーがどちらを取るのか、リーダーの責任において選択するしか方法はありません。経済を優先するのであれば、コロナによる犠牲者が増えますし、逆にコロナ対策を優先すれば、不況による犠牲者が増えるのは当然の結果であり、あとは政府がどれだけ国民を支援できるのかが焦点となります。
ところが専門家の側が、複数意見を調整するという行動を取ってしまうと、国民は正確な情報に基づいて判断を下すことができなくなります。その意味で、今回の尾身氏の発言には少々問題があったのではないでしょうか。
もっとも尾身氏は、今、筆者が述べたことなど、百も承知だとの指摘もあります。では、なぜ尾身氏は、すべてを分かっていながら、このような曖昧な発言をしたのでしょうか。その理由は、日本社会では「科学者は科学的事実を述べるのが仕事であり、判断するのはリーダーの役割である」という民主主義の大原則が守られないケースがあるからだという見方があります。つまり、科学的事実ばかり述べていると、一部の人が激しく反発して専門家に圧力をかけるため、科学的な見解を示す場所を奪われてしまう可能性があるという理屈です。
実際、コロナの感染拡大について悲観的な予測を行った一部の専門家に対しては誹謗中傷が行われるなど、近代国家としてはあってはならない出来事も起こりました。
科学的な「予想」というのは「予言」ではありませんから、一定の科学的知見に基づいて実施すればよく、もしその予想が現実と違っていた場合には、どこに誤りがあったのかを見つけ出すまでが専門家の役割です。結果が違っていたことの責任まで専門家に負わせてしまっては、誰もその仕事をやらなくなるでしょうし、逆に言えば、何らかの政治的意図を持った人しかその仕事に就かないという事態に陥るでしょう。
コロナは誰にとっても嫌な出来事であり、つらいのは皆、同じです。専門家に対して、純粋に科学的な知見に基づいた意見を言ってもらうためには、私たち国民の胆力も必要となるのです。
前回記事「“通知表のない小学校”開校から考える教育。日本が「昭和的」評価から脱却すべき理由」はこちら>>
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