毎日が楽しくてやりたいこともありすぎて
奥田さんが会社の事業として取り組んできた野菜作りも花開き、すっかり生活の一部になりました。
「野菜作りを始めて3年経ちますが、ほとんど野菜を買わなくてもいい生活になりました。私たちが取り組む自然栽培は、肥料も農薬も使いませんし、土も育ったので水をあげなくても野菜が育つようになったんです。東京にいた頃より賞与分だけお給料が減りましたが、今は買い物もほとんどしませんし、毎月かかる固定費は減りました。こっちに来て2tダンプを運転できるようにマニュアル免許を取ったり、今は狩猟にも興味があって、できるだけつながりのある方がさばいてくれた猪の肉を食べるようになったり、何だかどんどん野生化していっていますね(笑)。他にもプライベートで古民家改修の話があったり、米づくりを始めようかなと思ったり。毎日がものすごく楽しくて、やりたいことがありすぎて大変です」
会社の事業の一部として作っている野菜は、どこかに売ったりすることなく周りの方とシェアしているのだそう。
「売ってしまうと、その野菜は売上の価値にしかなりませんよね。時間をかけて育てても、こんな値段にしかならないということになると、お金を発生させることで野菜の価値が下がってしまいます。だからシェアすることで感謝できるこの状態を維持したくて。私たちは、自分たちで種を採って植えていく、繋いでいくという行為を大切にしていますが、野菜は虫や雑草の力によって作られたものでもあって、誰かが所有するものではないかなと。みんなで作ってみんなで食べるものだから、そこにお金という価値はなくても良くて、困っている人や欲しい人、手伝ってくれた人が持って帰る。売る以上の価値があるので、逆に売ったらもったいないなと思っています」
現在は、会社とは別で、ご縁があった方と一緒に岡山や鳥取での活動も行っている奥田さん。ひと月のうち1週間ほど淡路島から離れ、大学生と一緒に猪をさばいたり、畑をやりながら“生きるとはどういうことか”を探求するような活動をしています。
「私たちが淡路に作ったような場所を、国内外問わず増やしていきたいという想いがあるんです。虫も動物も一緒にみんなで作ってみんなで食べて、生きるとはどういうことかを探求する。そういう空間がより多くの場所にあったら、1人1人の豊かさを育てることができるんじゃないかなあと。
我が家は主人も月に1週間ぐらい東京出張があるので、育児と家事は手分けしてやっています。手分けというより、半分以上お願いしているかもしれません。東京で生まれた息子たちも今はもう7歳と5歳。当時の記憶はほとんどなく、たまに高層ビルに囲まれると疲れたと言っています(笑)。
私は基本的に利己的な人間で、自分が本当にやりたいと思ったことしかできないので、周りには迷惑をかけていると思います。でも、あなたのためにこれを我慢したと親に言われたところで子供は嫌でしょうし、好きなことを思い切りやっている親を見て育った方が、子供たちも自分の好きなことを思いっきりやってくれるんじゃないかと。そんな姿を見せられるように、これから先も私の活動は続いていくんだと思います」
次回は、コロナを機に鎌倉から南信州に移住したパティシエの方の話をお届けします。
取材・文・構成/井手朋子
前回記事「東京から淡路島に「移住」したら、家事や仕事の不満が消え、人生が好転し始めた」>>
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