「何を願うのか」……実は、そこにその人の「人としての成熟度」が隠されているといってもいいでしょう。
「なぜ、人は生きるのか」という哲学的な話にもなってしまいますが、単に何でもかんでも願いごとが叶ったらいい人生なのか、というとそうとは言えないもの。そんなことよりも、もっと大切なことがあるのです。

 
 


あの大物お笑い芸人の意外な願い事


以前、バラエティ番組で、明石家さんまさんが神社に参拝するコーナーがありました。そのとき、さんまさんが願ったことは、「願い事がなくなりますように」だったのです。
この願い事に深さを感じるのは、私だけではないでしょう。

解釈としては、

(1)何も願う必要がないくらいに、全て叶った状態になりたい
(=この1つの願い事で、全ての願いを叶えたい)

(2)すでに幸せで、何も願わなくていい状態になりたい
(=何も叶わなくても、ただただ幸せでありたい)

の2つが考えられます。

さんまさんの名言に「生きているだけで丸儲け」というのがあるので、おそらく(2)のほうだと思うのです。
私たちは日々、何かを得るために“新たな幸せ”ばかりを追いかけてしまうものですが、そんなことよりも、“今、目の前にある幸せ”に気づき、味わえるようになることのほうが大切です。

手元にある幸せに気づかず、「当たり前のもの」として認識してしまう人は、本当の幸せ者にはなれません。さらに、「あれもほしい、これもほしい」と欲望ばかり増えていき、振り回されてしまうと、不幸になってしまうことがあります。
何かを得なくても、ただただ幸せを味わうことができたら、私たちはもっと心穏やかに過ごせるのではないでしょうか。


「幸せの本質」が見えると、願い事が変わる


結局、精神が成熟するにつれて、願うことは変わってくるものです。例えば、視野が狭いときは、自分の利益ばかりを追求するような願い事を抱きがちです。でも、視野が広くなり、精神的に成長し、「幸せの本質」が見えてくると、「自分を含め、みんなが幸せになること」を願えるようになってくるのです。

実際に、たとえ自分は裕福で何もかも満たされている状態であっても、周りにいる人たちが不足をして苦しんでいたら、よほど自己中心的な性格でない限り、堂々とその幸せを味わうことはできなくなるでしょう。
みんなに悪いから素直に楽しめないだけでなく、自分だけがたくさん持っていることに心苦しくなったり、人に分け与えることのできない自分の器の小ささに悩んだりしてしまうものです。
結局、自分だけでなく、みんなが幸せにならないと、本当の意味で幸せを得られないところがあるのです。

極端な話、世界の全ての人たちがみんな幸せで満たされていたら、意地悪をする人はいなくなるでしょう。そんなことをする必要性を感じなくなるからです。
逆を言えば、ストレスや不安、苦しみや悲しみが多い世の中であればあるほど、他人を傷つけようとする人が増えてくるのです。
だから、自分に意地悪をする人がいなくなるためにも、また自分が意地悪をするような人にならないためにも、「世界が明るく、幸せであること」に越したことはないのです。

「鶏が先か、卵が先か」ではないですが、「心が成熟するから、願い事が変わる」だけでなく、先に「“心が成熟した願い事”をすることで、成長していく」ことがあります。それについては、次のページで紹介します。