室岡にとって“信じる”ことは“狂う”ことだった
この文脈を深く味わうためには、室岡という人間により心を寄り添わせていかなければなりません。
室岡は出家信者の父を持つ宗教二世。父が入信した「ヴェーダ 天啓の会」はカルト集団で、室岡は人体実験と称して半年間食事を与えられず点滴のみで過ごすなど悲惨な少年時代を送りました。勢力を拡大する「ヴェーダ 天啓の会」はやがて凶悪犯罪に手を染めた挙げ句、父は死刑に。以降、死刑囚の子として生きる道しか与えられなかった室岡は、極道の世界に己の居場所を見出しました。
こうしたバックボーンを持つ室岡にとって“信じる”という行為は、ひどく無様で、恐ろしいものだった気がします。父はまやかしの神様に縋ったがために堕ちた。血を分けた息子である自分より、体温のない偶像に救いを求めた。室岡にとって“信じる”ことは“狂う”ことでした。
だから、室岡は簡単に人を信用などしなかった。表面上は人なつっこい犬っころだけど、いつも笑顔の下には牙を隠していた。室岡が初めてお腹を見せて笑えたのが、兼高でした。自分より強く、自分より底知れぬものを持っている。そんな兼高が好きだった。
“仕事”の前の2人だけのトレーニングタイム。鬼ごっこのように追いかけ合い、プロレスごっこのように殺人術を学ぶ。もうすぐ今日の獲物がやってくる。今から自分たちは人を殺す。そんなことを感じさせないくらい、その時間は微笑ましくて、それが二度と還ってこないものだという予感が、鼻先にかすかな痛みを残す。
そして、兼高を信じてしまがったがために、室岡は狂うしかなくなった。『ヘルドッグス』は死刑囚の子という十字架を背負わされた宗教二世が、主を信じたがために、父と同じように罪に堕ちゆく物語だとも読めます。
兼高から手を離されるのが怖くて、室岡は三神を殺した
会長秘書にまで上りつめた兼高は、敵対関係にある三神國也(金田哲)に警官であることを知られたことから、その立場を危うくされます。
そのとき、真実が暴かれる前に三神を始末したのが室岡でした。いかにヤクザと言えど、同胞を殺すことは御法度。この掟を破ったことから、室岡は破滅への道を進んでいきます。
公式で「制御不能のサイコボーイ」と紹介されている室岡ですが、僕には室岡が感情の欠落したサイコパスには見えませんでした。むしろ、ただ愛を欲しがるピュアで寂しがり屋の男の子。
室岡のリミッターが外れたのは、三神を手にかけたときから。ではなぜ室岡は自制心を失ったのか。それは、その直前に兼高とのコンビ解消を言い渡されたからのような気がします。
もう自分は兄貴の相棒ではなくなる。兄貴から必要とされなくなる。それが、室岡は怖かった。自分を顧みることなく、信仰にのめり込んでいった父。その背中を覚えているから、もう振り向いてもらえなくなることが怖かった。手を離されることが怖かった。
だから、室岡は必死に役に立とうとした。自分は兄貴にとって必要な存在なんだと証明したかった。その一心で向かった先が、兼高を良く思わない三神だった。
必要とされなくなったら、あとは堕ちていくだけ。あの螺旋階段は、もう二度と孤独に堕ちたくない室岡の“蜘蛛の糸”。でも蜘蛛の糸は愛の重みに耐えられなかった。だから、室岡は堕ちるしかなかったのです。
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