誰もが抱えるささやかな「嘘」にまつわる、オムニバス・ストーリー。 

 


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港区タワーマンション怪談【明菜の震え】

 

――ふう。受験生の母なんてこういう時間がないとやってられないわ……。

ホテルのスパで、トリートメントを受けながら、明菜はゆっくりと息を吐いた。間接照明のスパルームはかすかにガムランのような音楽が流れ、湿度も温度も最高に心地いい。何よりも外界の全てから遮断されている。

ここにいれば、亜美の受験のことを束の間、忘れることができた。アロマトリートメントと美容鍼のコース3時間で7万円。亜美のために呼んできた1時間2万円の合格請負人と呼ばれるプロ家庭教師と、どちらが法外なのだろう。

不意に無理矢理頭の隅に追いやっていた不安が顔を出す。昨夜返却された学校別模擬試験の結果。6年生の直前期で合格判定20%。志望者約600人中、500番では、合格定員の160人に入れるとは到底思えない。

成績表を目にした瞬間に、小さく悲鳴を上げた。PCをスクロールする手が震える。咄嗟に浮かんだのは、同じ志望校の絵里花やマミのことだった。きっと二人は500番よりずっと上だろう。苦しすぎて誰かに相談したいけれど、多香子と成美には絶対に知られたくない。1時間数万円で雇った家庭教師や講師だけが、この苦しみをぶつけていい相手に思われた。明日、面談を申し込もう。

吐き気のようにせり上がってくる不安になんとか耐えるため、明菜は1人で過ごせる午前中に、出来るだけ自分を労わる予定を入れる。ホテルスパのトリートメントのように、メゾンでの買い物のように。手っ取り早く脳内トリップできる方法が必要だ。

ダメだダメだと思いながら使った家族カードの今月の引き落としは、ゆうに100万円を超えている。きっと賢治は痛烈な嫌味を言うに違いない。

もしかして昼間、家でお酒を飲んでいることも気づかれているかもしれない。恐ろしいほどの食欲と、脂肪吸引のことも。

だけどそのことを夫に面と向かって指摘されたら、明菜は自分がどうなってしまうのかわからない。自分の醜悪な弱さを誰かに見られて、顔を背けられるなんて耐えられない。超高級タワーマンションの上層部に住み、毎日美しく装い、ひたすら羨ましがられるのが明菜の人生だったはずだ。

もう、スパニストの心地いい手技も、明菜の焦りを取り除きはしない。こうなってしまえば無駄な課金だ。

明菜は今日も脳内トリップに失敗したことを知る。本番まであと2ヵ月。焦りは最高潮に達していた。