「最近の若者は叱られ慣れていない」。そんなことを言っている記事を見かけたことはないでしょうか。以前書いた記事でも触れましたが、若者に関する報道で、「〇割の若者が叱られたことがないと回答した」といった情報がピックアップされることがありました。さらに、「今の若者は叱られていないから自分勝手」、時には「モンスター」なんて言われることも。これらには、叱られることは人が成長する上で必要なことで、叱られて人は一人前になる、という前提があるように思われます。

でも、筆者は「叱るって必要?」とずっと疑問でした。その疑問が生まれたのにはいくつか理由がありますが、その一つに自分の実体験があります。

「叱る」ことに意味があるのか? という疑問

 

筆者は、接客業をしていたことがあります。いろんな現場に行きましたが、派遣だったためか丁寧に教えてもらえることが少なく、ミスをすると叱られることも多かったのです。振り返ると、叱られていた時、本当にミスを多発していました。叱られると緊張して、頭が真っ白になります。叱られるのではないかと緊張し、さらにミスしやすくなるという悪循環。

しかしある現場では、社員が誰一人として叱りませんでした。叱るのではなく、とにかく教えてくれるのです。ミスしたら、原因を一緒に考える。一つの作業を教えるにしても、なぜその作業が必要なのかを教え、諭すという感じです。そこで働くうち、ミスは激減し、今までどんなにやってもできなかったラッピング(詰め合わせの箱などに包装紙を巻くのですが、意外と技術が要ります)作業までできるようになりました。その体験から、「叱るって意味があるのか?」とずっと疑問だったのです。

 

「相手にネガティブな感情体験を与える」こと


遡れば学生時代、とにかく「先生は叱るもの」というイメージでした。でも正直、恐怖で学生を押さえつけているようにしか見えませんでした。学生を本当の意味で成長させるには、先生との信頼関係を築いた上で、学生に向き合うことが必要ではないでしょうか。それを抜きに、とにかく一挙手一投足に高圧的に怒る、叱る。その様子は、鬱憤を晴らしているだけのように見えました。叱られる方は極度のストレスに晒され、時にトラウマにすらなります。

叱る行為に正当性があろうがなかろうが、叱る側には絶対的な権力があり、相手を叱ることで従わせることができてしまいます。

「叱るって意味があるのか?」、筆者のそんな素朴な疑問に、答えをくれた一冊があります。それが村中直人さんの『〈叱る依存〉がとまらない』(紀伊国屋書店)です。

この本では、「叱る」という行為を以下のように定義しています。


言葉を用いてネガティブな感情体験(恐怖、不安、苦痛、悲しみなど)を与えることで、相手の行動や認識の変化を引き起こし、思うようにコントロールしようとする行為
――『〈叱る依存〉がとまらない』(P34)より

叱るという行為の特徴は、「相手にネガティブな感情体験を与える」ということだというのです。ネガティブな感情体験を与えない場合は、「教える」「諭す」などの言い方もできるはずです。叱るということの他の行為との違いは、その行為で「相手にネガティブな感情を与える」ということなのです。