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学校教育が万人に開かれた機会であるのは事実ですが、学校のテストで良い点が取れるのかどうかは、先天的な要因に影響されるということが、多くの研究で明らかになっています。つまり、学校の成績が良かった親から生まれた子供は、同じ努力であれば、そうでない子よりも高い点数が取れる可能性が高いということです。

そうなると、有利な状況で生まれた子供と、そうではない子供とでは得られるものが変わってきますから、そもそも機会の平等が担保されないという問題が出てくることになります。

近年は受験産業が発達していることもあり、子どものうちから塾などでトレーニングを受けないと偏差値の高い学校に入るのは難しくなってきました。そうなると、十分な教育を受けられる家庭とそうでない家庭の子どもには、最初から大きな差が付いてしまいます。さらに言えば、家庭環境が劣悪だった場合、そもそも机に向かって勉強するという習慣自体が身に付きにくいという問題もあるでしょう。

以上を総合的に考えると、教育は万人に開かれたチャンスなので、努力をしないのは当人が悪いという意見は、半分は合っているのですが、半分はそうとも言えないというのが結論ということになります。

 

では、環境が悪かった人は、半分は自分が悪いので諦めなければならないのかというと、そうではありません。

学校の勉強で測れる能力など、人間が持つ能力のごく一部に過ぎません。いわゆる学校秀才と呼ばれる人が、実際に社会に出てみると使いモノにならないというケースは、皆さん日常的に目にしているのではないでしょうか。人間社会で成功するためには、単純な学力よりもコミュニケーションや相手の状況を理解する感性など、もっと多面的なスキルが求められます。

そして多くの研究から、こうした学力以外の能力については遺伝的要因があまり関係せず、自身がどう考え、どう振る舞うのかで決まることが知られています。つまりコミュニケーション能力や交渉力といったスキルは、自身でいかようにも身につけることができるというわけです。

単純な学力テストで人の能力を決めるのではなく、人材をより多面的に評価する社会にしていけば、多くの人が、努力の結果を成果に反映されやすくなることでしょう。一方で、多面的な評価が定着した場合、社会の中で自分が活躍できるのかどうかは、まさに自身の努力にかかってくることになります。そうなると、いよいよ環境のせいにはできなくなってしまうかもしれません。

前回記事「【教育無償化】日本が“制約なしの教育支援”をもっと進めるべき理由。政府の支援案には疑問も」はこちら>>

 
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