「個人化社会」における重圧が結婚を難しくしている

「個人化」とは、個人における選択肢が増えること、そして増えた選択肢の結果起きるリスクを、選び取った本人が受容しなくてはならない状態を指します。

子どもが親の職業を自動的に継がなくてはならなかった時代には、人生の大部分が「想定内」のうちに進みました。親や祖父母が歩んできた道を、自分も歩けばよかったからです。しかし、職業を自分自身で選ぶようになると、「予想外の困難」や「想像もしなかった結果」が、我が身に降りかかるかもしれません。

「学業」も「職業」も、「結婚」も「未婚」も「離婚」も「結婚相手」も、すべて自分で選べる自由。それは嬉しいことのように見えて、同時に怖いことでもあります。その結果を誰のせいにもできないからです。そうなると幸せすらも、そのすべてが自分自身の選択の結果になってきます。選択がたまたまうまくいけば「幸せな人生」となり、失敗すれば「それを選んだのはあなたでしょう」と言われる恐怖。その責任の大きさに、現代人はすでに疲れ始めています。

「果たして自分の選択はこれで合っていたのだろうか」「結婚相手はこの人で正解だったのだろうか」「もっと他に良い人がいたのではないか」と、自問自答は繰り返されます。

 

かつての結婚と現代の結婚では、個人にのしかかる責任の重さが違う

自分が「選べる」ということは、相手にも「選ぶ権利がある」。そうなると、「自分は相手を選んだのに、肝心の相手から自分が選ばれない」というようなことが往々にして起きるようになります。

 

しかも、かつてのイエ同士の結婚ならば、自分が選ばれなかったのは、自分のせいではないと思うことができました。かつての「結婚」は、そのシステム上、個人のスペックはさほど重視されなかったからです。

しかしながら、現在はどうでしょう。「結婚」が個人の選択に委ねられた結果、その成否は限りなく個人の努力や才能、生まれ持っての容姿やそれを磨く習慣、人柄や学歴などに大きく左右されるようになりました。

その結果、本来最も「競争から遠い」という幻想に守られていた「恋愛」「結婚」フィールドでも、「勝ち組」「負け組」に人々は二極化していきました。「個人の欲望」対「他者の欲望」がぶつかる戦場が婚活市場です。そうなると結局は、「市場における個人の力が強い者(ハイスペック)」が勝者となっていきます。