「他人が子育てに失敗した男」を育て直すのはまっぴらごめんだ

どんな家の押し入れにもミイラが眠っているというのは臨床心理士の信田さよ子さんの言葉だが、問題のない家族や親戚なんてない。夫婦になって混ざるって、つまりは布団の中によそんちのミイラを押し込まれるってことだ。私はミイラの多い家に育ったから、その上よそんちのまで引き受けるのなんてまっぴらごめんだった(当然こちらも、おらがミイラを夫の布団にぐいぐい押し込んでいるわけだが)。

 

こういうことを書くと、情がないとか自己中心的とか嫁としてアルマジロとか言うのだろう。言えばいい。私は、よそ様のミイラまでケアする余裕なんてない。そんなものこっちに押し付けてくるな。

ヨメと呼ばれる女たちは、なぜか他人が子育てに失敗した男を育て直すことを期待されている。もちろん完璧な子育てなんてないのだから、人はみんな育ち損ないだ。自分の不具合をなんとか自分でケアできるようにならなくちゃならない。それには、他人に頼ることが肝心だ。上手に助けを求め、痛みや困りごとを言語化できるようになるのが、大人になるということ、自立するということだ。しかしその学習を積む機会は女の方が圧倒的に多い。なぜなら、助けてと言わないと誰も気にしてくれないから。いるよと言わないと、いないことにされるからだ。

たとえ思いを口にすることが許されなくても、胸の中で「どうして」「なんで」と自問して、誰にも読まれない記録をつけ続けている。そこに言葉はあるのだ。親子がそうであるように、先に言葉を持った者が、いまだ言葉を持たない者をケアすることになる。言葉を与えて、その人が自身と世界を認識する手伝いをする役割を与えられるのだ。親子の場合は、その言葉はいつか上書きされるべきものだ。それが子どもの成長というやつだもの。でもそれを夫婦でやるのは厄介だ。相手は子どもじゃないからだ。成長は期待できない。

言葉を持つ者は力を持つ。だから相手に刷り込んだ言葉でその者を縛って支配することもできる。未来永劫、地の果てまでついて回る呪いをかけることもできる。われ知らずそのような呪縛を与えることから逃れられない立場にあるという点で、親は原罪を負っていると私は思う。解剖学者の養老孟司さんは「親というのは重いものだ」と語っていた。ご自身の母親を亡くされた時も、解放されたような思いがしたそうだ。いわゆる毒親と言われるような存在でなくても、親はいるだけで重いのだ。出会った瞬間から深く関わっている間柄で、片方はもう片方が存在していなかった世界を知っているのだから、圧倒的な力の不均衡がある。

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写真:Shutterstock

出産によって親になった場合は、もともと自分の中に入っていた人が出てくるのだから他の出会いとはちょっと違う。自分由来のタンパク質を原材料とした未知の生命体が、ありえないサイズで腹から出てきて、成長しながらどんどん遠ざかっていく。自分由来のタンパク質なんて、すぐに代謝されてしまう。つまりはこのようにして「他者と融合して代謝されて消えてしまいたい」という私の夢は一部叶ったわけだが、代謝されたのは私の卵子由来のタンパク質に過ぎず、私の大きな本体は自前で新陳代謝しながら存在し続ける。そして柔らかな脳と心を持った子どもに言葉を与えるのだ。なんと罪深きことよ。