人間は、野生動物のように孤独では生きられない


映画を見終わって強く感じたのは、人間には最後の最後まで「人には知られたくない、かといって手放すこともできない思いがある」ということです。時に痛々しさを伴う「見せることができない理由」は、プライドとか羞恥心とか人それぞれで違うのでしょうが、それによってもたらされるものはおそらく皆同じ。わかり易い言葉で言えば「孤独」でしょうか。

森山未來さん(以下、森山):当たり前すぎることですが、人って人と繋がっていないと生きられないんですよね。それは精神的な支えが必要というような話ではなく、ホモサピエンスとして誕生したときから宿命つけられていることーーサバイブするために集団として生きることを選び、「集団であること」を強化するために言語や想像力を進化させてきたのが人間なので。ある種の野生動物のように孤独では生きられないんです。そもそも「孤独」という言葉も「誰かが周りにいる、もしくは、いた」ということが前提で……とはいえ、そういう人間だからこその孤独もあり、「逆もまた然り(人は孤独である)」と言えるのかもしれません。そうなっちゃうと人間の根源的な話にならざるを得ないんですよね。

森山未來「まるで俳優のように虚構の世界に寄り添う」認知症の父の真っすぐさに感化された息子の思い_img0
 

そんな「人間の根源的なもの」に迫る映画『大いなる不在』の主人公は、長い間、顔を合わせることがなかった父子、陽二と卓(たかし)です。幼い頃の両親の離婚で母親のもとで育ち、現在は俳優になった卓にとって、理屈っぽく偏屈な学者である陽二の記憶は多くが苦々しいものです。陽二は離婚後に、結婚前から愛し続けていた女性・直美と再婚もしており、卓の中には「母と自分を捨てた男」という感覚もぬぐいようもなく存在します。物語が描くのは、陽二がある事件を起こし、認知症を発症していることが分かったことで、ぎこちなく動き出したそんな父息子の関係です。

森山:1番大事なシーンだと思ったのはラストシーンです。陽二さんというのは物理学者で、言語、ロジックバリバリの人ですよね。それが認知症という病になって、言語もロジックも記憶もどんどん剥ぎ取られ全部が霧消していった先に、ラストシーンの陽二さんのあの行動がある。最後の最後で陽二さんから「何か」が噴出した場面といえるかもしれません。問題は「何が噴出したのか?」っていうことですよね。そのコアにあるのは病とか老いとは関係ない、ある種の普遍的な、人間を人間たらしめる要素として誰もが必ず内包しているものなのではないかなと。映画が約2時間かけて語ってきたその「何か」が、この場面に集約されていると思うんです。陽二だけの話ではなくて、すべての登場人物に関わるものとして、彼の行動はすごくシンボリックなもののような気がします。