ロジカルな会話がもうできないからこそ、まっすぐに届いてくる部分がある


認知症の施設に入った陽二は「拉致されて自由のない国に来た」「直美は自殺をした」と真顔で自らの妄想を語り、卓のことを幼い頃のように「たっくん」と呼びはじめます。会うたびに卓に理屈っぽくも面倒な説教を繰り返してきた父親は跡形もなく、現実と非現実がごちゃまぜになり、時間も空間も飛び越えた別の世界を生きているようです。驚きと困惑の中、やがて卓はその世界に合わせた役割を演じるようになってゆきます。

森山:映画の撮影に入る前に読んだ認知症に関する本に、”認知症を患った方と関わるためには、まるで俳優のように、認知症の方が作り出す虚構の世界に寄り添うことが重要である” と書かれていました。演じる僕にとってはそのことが大きかったんですが、卓がそういう選択をしたのには複合的な理由があると思います。ひとつはもちろん彼と父との個人な関係という要素。そしてもうひとつは、虚構の中に身を置くことをベースにした俳優という職業であることも関係しているんだろうなと。

森山未來「まるで俳優のように虚構の世界に寄り添う」認知症の父の真っすぐさに感化された息子の思い_img0
 

映画の中には、直美が大切にした日記が登場します。そこには、妻子ある立場だった当時の陽二から、別の男の妻になった直美への、熱烈な愛の言葉が綴られたいくつもの手紙が挟まれています。卓にとってはそれが「脚本のような役割を果たした」と森山さんはいいます。

森山:卓の俳優としての側面において、直美さんの日記は脚本のような役割になっていたように思います。俳優という仕事では、やったことのない職業に就くとか、出会ったことのないシチュエーションに出会うとか、すごく限られた時間とはいえ実際に経験するわけですよね。もちろん実際にその人生を送ってはいない、その生活をしてはいないんですが、それでもやっぱり、俳優自身の実生活や価値観、考え方へのフィードバックというのは、多少なりとも必ず起こってくる。僕自身そういう実感がありますし、卓にもおこり得たと思うんです。後半には卓が直美さん宛ての父の手紙を諳んじる場面もあるんですが、朗読でないことがすごくポイントだと思ったんですよね。文章を記憶するには、自分なりに解釈している必要がある。そうでないと頭に入ってこないものなんです。

一方、個人としての卓は、できる限り距離を取ってきた父親が認知症になり、過去を語り始め、唐突に「たっくん」なんて呼ばれることで、感情的にすごく翻弄されます。もはや陽二とはまともな話ができない状況の中で、直美さんの日記を読み始め、自分と父の当時のことをふりかえるわけです。幼少期の記憶の中の父は「母親と自分を捨てたひどいやつ」であり、恨みのようなものもあったはずで、たとえ「許してくれ」と言われてもそう簡単に許せるわけではない。でも認知症の父の直美さんへの純粋な思いや、自分に対する謝罪の真っ直ぐさに、感化された部分はあると思うんです。そこはすごくアンビバレントというか、理屈ではないんですよね。 認知症でロジカルな会話がもうできなくなっているからこそ、よりまっすぐに届いてくるというか。