ファッションスタイリスト佐藤佳菜子さんが日常に感じる思いを綴る連載です。
わたしの記憶力たるや無惨なもので、昨晩食べたものはおろか、5分前にやろうと思い立ったことも当然のごとく忘れているから困る。
そんなポンコツな自分をなんとか社会に繋ぎ止めてくれているのはアシスタントと共有しているGoogleカレンダーのみで、どうにか忘れないようにと息も絶え絶えに、なんとかアプリを開きカレンダーに入れようとしたら、過去の自分によってすでにスケジュール済み。
Orz..
とにかく過去の自分も現在の自分も、何もかもが信用できやしない。ましてや、子供時代や学生時代のことなどをさかのぼって思い返す場面では、記憶の彼方をいくら手繰ったとてその片鱗すら掴めず、こちらの顔は、もはや土偶になっている。とくに縄文時代の初期ごろの素朴に作られたテンテン顔の土偶の方を想像してもらいたい(晩期のものは、比較的はっきりした顔をしているのでダメです)。
もはや、記憶障害なのではと思っていただいて差し支えない状態の記憶の中で珍しいほど鮮明に覚えていることがある。
たしか、中学1、2年生の頃(さっそく曖昧)、夏に買ってもらったサンダルを手の中でじっと見つめていたらその靴が、なんとも美しくて儚い存在だと感じてきて全身にザワっと血がめぐり、我慢できないほどのかわいさに武者震いがした。
靴を偏愛する女性など、この世には公園にいる鳩の数ほどいるが、そのとき、当方、確実にそのぽっぽの会の会員となったのだ。
そして、中学生時代の愛読書といえば『non-no』で、現在は女優をされているりょうさんが当時『non-no』のモデルで、連載を持っていらした。
その当時、りょうさんが大好きだったのですが、その連載の中でだったか、本誌のページでだったか、彼女が細身のパンツにとてもシンプルなマノロブラニクのサンダルを履いている写真があって、それが衝撃的に素敵で面食らってしまった。まさにそのとき、鳩が豆鉄砲をくらったような顔をしていたと思う。
その日から、マノロブラニクはわたしの世界で偶像崇拝の対象となった。日本には八百万の神がいるというのだから、『靴の神』が一柱いたって、なんら問題はないだろう。
中高6年間をカトリック教育の学校で過ごしたにも関わらず、以来、人生を通して熱心に信仰しているのは『靴の神』だけ。先生、シスター、ごめんなさい。
敬虔な『靴の神』の信者ゆえ、40数年の人生の中で、いままで、新宿にいる鳩の数ほどの靴を手にしてきたと思う。それでもまだ、自分の中に残っていたバージニティが『赤い靴』。
そして当方、この夏、齢41にしてついに『赤い靴』の初体験を致しました。
何をだらだらと書いてきたかというと、ただこれをいうためだけです。ここはもう、ここまで読んでいただいた皆様に、素直に謝りたい。お時間をいただいて、えらいすみません。
もちろん、お相手は積年の恋の相手マノロブラニク。
若い頃は、背伸びをした大人っぽい自分でありたくて、甘いものや女の子らしいものに惹かれなかった。ただ、中年になると、今までの人生のすべてが人間性や顔、身体中そこかしこに現れてくる年頃。そうなるとどんなものを身につけた自分ももはや、わたしでしかない。いまは逆にどんなにカワイイものを身につけたとて、可憐な少女になどなれやしない。それならば、もう気負うことなく赤い靴が履ける気がして、はじめて、赤い靴が欲しいと思ったのだ。
🎵大人の階段のーぼるー
なんとなくまたひとつ大人になった感慨がある。こうして、昔も今もわたしを見守り、育ててくれるのはいつだって『靴の神』。
あの、一生、好きでいてもいいですか??
スタイリスト佐藤佳菜子さんのコーディネート
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バナー画像撮影/川﨑一貴(MOUSTACHE)
文/佐藤佳菜子
構成/堂坂由香
前回記事「「小柄の方が楽しめる服」を考える『LASHIKU(ラシク)』とのコラボ【スタイリスト佐藤佳菜子さん】」はこちら>>
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