21時の訪問
「なんでも聞いてください、先生。そしてぜひうちの斗真をお願いします。今、塾はマトリックスに通っていて、個別指導塾にも週1回通っています。志望校はメールでもお伝えしたように、医学部に強い全寮制の星雲中学なんですけれど、偏差値が15くらい足りなくて……。カリスマ家庭教師の神崎先生のお力をお借りしてなんとか間に合わせたくて。医師である主人の、悲願なんです」
依頼人、沢田斗真の母親は芝居がかった様子で頭を下げた。口調は丁寧でおっとりしているけれど有無を言わせない圧がある。父親は有名な外科医だと、紹介者の保護者からきいた。道理でこの高級住宅街のなかでもさらに豪華なタワーマンションに住んでいるわけだ。この広々とした物件なら3億は下らないはず。
……上客になるだろう。この手合いは教育費に糸目はつけない。
「もし私が斗真くんと勉強をするとして、お伺いする曜日はマトリックスの授業がない火曜と木曜になりますね。お時間はいかがですか?」
「いいえ、先生。火曜や木曜だけじゃなくて、ほかの日も全部お願いします。塾がある日も20時半には帰ってきますから、先生さえよろしければ21時から23時に来てください。必要とあれば帰りのタクシー代もお出しします。もちろん土日も。あと4カ月、お金はいくらでも払います。その代わり、絶対に合格させてください。効果があるなら小学校も今から休みます。あの中学に、絶対に合格させてくださいね、先生」
塾が終わってから家庭教師?
新卒から大手塾講師として10年この業界に携わり、独立して難関校専門の家庭教師になった。合格請負人などと呼ばれるようになってだいぶ経つが、さすがにそんな無茶を言い出す保護者は初めてだ。
このあたりはあらゆる大手塾の校舎がひしめいている。それもそのはず、高所得な人々が集まるエリアは親の教育熱も狂気レベル。我々にとっていいお客様が大勢いるというわけだ。時給2万円の個人指導、完全口コミだけで、結構な人気があるのも教育ママの巣窟ならでは。
「……わかりました。それほどの御覚悟があるのならば、まずお見積りとして具体的にプランを立ててみましょう。この半年の模試の成績と、ノートを見せていただけますか?」
沢田斗真の母親は、それを聞くとにっこりと笑って、雑に束ねられた成績表を並べ始めた。手入れされたピンクのネイルの指先に、キラキラとクリスタルがくっついている。「これが最近の模試だと思います」と言いながら、またわざとらしくにっこりとほほ笑む。
その様子に、俺はどことなく違和感を覚えながらも、資料を読み込みはじめた。
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