転勤に帯同する妻。頭に浮かんだのは……?
夫の遼平は、工場で働く人のヘルスケアを仕事にしている。その昔、友人の紹介で会ったときは今ひとつ何の仕事か分からず、大手メーカーの本社で働いていたので、ちょっといい会社のサラリーマンなのね、くらいの認識だった。
そのあとお付き合いに至り、1年ちょっとで結婚したときも、「定年までに1、2回は工場勤務がある」という話をさほど気に留めていなかった。長くて数年だという。食べ物の美味しいところならついていけばいい。友達を作るのは得意だし、むしろ東京に生まれてほかの土地で暮らしたことがない私は、そんなことがあればいい機会と思っていた。
それから10年が経ち、38になって、もうほとんど忘れた頃に辞令が出た。北海道だった。
「工場のスタッフの心身のヘルスケア責任者としていくから、3年は勤務すると思う。単身赴任でも構わないけれど、治療のことはなあ……」
遼平は申し訳なさそうにそう言った。私たちはちょうど、不妊治療を始めたところだった。36歳の同い年夫婦。今から3年も別々に暮らすとなると、それは難航するだろう。遼平が帰ってこられるのも飛行機となれば2カ月に1回くらいになる。
「私、一緒に行くよ! そもそも子ども作るのが遅れちゃったのは私が病気しちゃったせいだし。この3年は大事だもん。一緒に行きたい」
それは本心だった。30になってしばらくして、私に超初期の乳がんが見つかった。会社の定期健診で運よく見つかったそれは、すぐに手術で除去できて、本当にラッキーだったと思う。ただ、そのあとしばらく治療で放射線を当てたので子どもをつくるのは中止した経緯がある。
内心では「がんが再発したら若いからあっという間かもしれない。そしたら子どもは……」と想像してしまって、とても子どもを持つことは考えられなかった。遼平は、それを辛抱強く支えてくれた。子どもが好きで、2人はほしいなあ、と言っていたのに。
あのときの感謝が、今回の転勤についてくることを決断させた。病気の治療のあと、私は小さな専門商社で契約社員として働いていた。こう言っちゃなんだが、大企業の正社員じゃなくてよかった。それは辞めるのに勇気がいる。
今の私には、遼平のたったひとりの家族だということが一番居心地のいい、大切な属性だった。北海道に帯同することに、ほとんど迷いはなかった……はずだった。
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