自由は「同感」の上に成立する


かつて「近代経済学の父」、アダム・スミスが、その主著『国富論』において、政府による市場への介入を批判して「自由放任」を唱えたことは、広く知られている。しかしスミスは、『国富論』に遡ること17年前の1759年に出されたもう一冊の主著『道徳感情論』において、「同感(Sympathy)」によって支配され、人々がみな「適宜性」(「ちょうどよさ」と言っていいだろう)に基づいて行動する、という健全な「市民社会」の姿を提示している。

むしろ、スミスが『国富論』で唱えた自由放任な社会、そして自由市場に基づく資本主義市場経済は、この「同感の行き渡った健全な市民社会」の存在が前提となっている。

ひとびとが、他者に「同感」できる社会。他人の痛みや気持ちを「想像」し、「同感」することによって、ひとびとが「適宜性」に基づいて行動する市民社会。それこそが、資本主義市場経済というシステムが存続するための大前提なのだ。

そして言論における「超えてはいけない一線」もまた、この「適宜性」のひとつである。市場の自由において「適宜性」が必要なのと同様に、言論の自由においても「適宜性」が必要なのだ。あらゆる「自由」は、「ちょうどよさ」によって成り立っている、と言っても過言ではないだろう。そして、その「ちょうどよさ」の範疇は、どんどん変化しているのである。

つまり、「LGBTには生産性がない」、という言説は、欧米や台湾においては外国人や障害者への差別的言動と同様に、この「適宜性」の範疇に入らない

「適宜性」のない言論が、「言論の自由」の名のもとに語られることで、むしろ「言論の自由」が危機に瀕する、ということに思いを致すべきだろう。

もちろん同様のことは僕たち抗議する側にも言える。「Fuck you very much」や「Public Enemy」といった表現に、果たして「適宜性」はあっただろうか。これらの表現が、「同感」を呼び起こすことができただろうか。それを再考する必要があるように思われてならない。

 

「指向」と「嗜好」の大きな違い


それでは、僕たちはどうしたら「同感」を呼び起こし、LGBTへの批判や異論を、「超えてはいけない一線」とすることができるのだろう?

僕は、「学ぶ」ことにつきると思う。今回の杉田議員の暴論は、究極的には「無知」が原因である。たとえば杉田議員は論説のなかで、性同一性障害(LGBTの“T”)以外のレズビアン・ゲイ・バイセクシュアル(LGB)は性的「嗜好」とも述べている。

今では広く知られているが、僕たちのセクシュアリティは「性的指向(Sexual Orientation)」であって「性的嗜好(Sexual Preference)」ではない。僕たちは望んでこのセクシュアリティに生まれたわけではないし、逆に言えば読者のなかのストレートの人たちも、望んで異性愛者になったわけではないだろう。

僕だって、中学のときにこの性的指向を自覚したときは、深く思い悩んだし、苦しんだ。中学3年生のときには、唯一心を許していた同級生に対して「ストレートになれる薬があるなら、俺はそれを飲みたい」と泣きながら訴えた。あのときの葛藤や、屈辱感や、自分が自分を認められない苦しさが、全部「嗜好」だと言うなら、僕は相当なドMだということになる。

慶應中等部のころ、筆者は「女の子を好きになれたらどんなに楽か」と思い悩んでいた