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スポーツ万能の雅子さま「中学時代に熱中したソフトボールとスキー」

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素晴らしいスキーの腕前


スポーツレディの雅子さんは、スキーの腕前もかなりのものでした。
中学3年のときに初めて行われたスキー教室では、雅子さんの素晴らしい滑りに同級生たちは目を見張ったといいます。
「参加した人のなかではもちろん一番。指導の先生にも遜色のない滑りだったので、同級生たちはみな驚きました。それに、初心者にも親切に教えていました」
と、当時の同級生は語ってくれました。

滑れない人のスキー板が下まで流れてしまったときには、雅子さんはわざわざとってきてくれたといいます。
雅子さんは、幼児期を過ごしたモスクワで、新潟県出身の父から手ほどきを受けていたのです。

雅子さま3歳。モスクワで初めてのスキー。写真/宮内庁提供


父の恆さんの出身地である新潟県高田は、「高田のスキー連隊」が存在した土地です。高田は明治44年(1911年)、歩兵第58連隊が、オーストリアのレルヒ少佐の指導で始めたスキー発祥の地といわれています。 

今でも、雅子さまは天皇陛下とスキーを楽しまれています。真っ白なゲレンデは、雅子さまを子どものころの気持ちにかえらせてくれるすてきな場所なのかもしれません。


小和田家は文武両道の家系


小和田家の父方は教育者の家系です。母方の祖父は江頭(えがしら)安太郎という明治期の海軍中将です。
江頭安太郎氏は佐賀県の出身で、明治19年(1886年)に海軍兵学校を首席で卒業しました。優美子さんのいとこで江頭安太郎の直系の孫に、文芸評論家の江藤淳がいます。
江藤淳の著作『一族再会』(講談社文庫)には、
「江頭安太郎は海兵在学中に、散歩しながら、英語の辞書を一冊食べてしまったという伝説があった。歩きながら辞書のページをめくり、表裏を黙読して、暗記してしまうと口に入れて飲み込み、区切りをつける。そしてまた新しいページをちぎり、暗記を続ける」
という一文があります。

優美子さんの母、江頭寿々子さんの父、山屋他人(やまやたにん)氏も、明治期の海軍大将です。明治38年(1905年)の日本海海戦で、当時世界最強のロシアのバルチック艦隊を破った「T字戦法」も、山屋他人氏が考案した戦術だったといいます。

ソフトボールひとつにしても強制されてするものではなく、自分で始めたことなら最大限の努力をするべきであるというのです。
両親は、それを小和田家の教育方針として、雅子さんや双子の礼子さんと節子さんを育てたのでした。

昭和51年(1978年)、雅子さんたちが創設したソフトボール部は、世田谷区の大会で優勝。チームメイトは抱き合って泣いて喜び、優勝カップにオレンジジュースを注いて回し飲みしました。

 

美智子さまから雅子さまへ 三部作1 美智子さまの想いが雅子さまへ 雅子妃誕生
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外交官だった小和田雅子さんは、皇太子・浩宮さまに見初められて皇室に入ることに。雅子さまの生い立ちやから皇太子の熱い求愛、ご成婚までの軌跡が余すところなく盛り込まれた作品。雅子さまと同じく、平民から皇室に入られた美智子さまのお姿を交えて描きます。

 

 

美智子さまから雅子さまへ 三部作2 美智子さまもご祝福 雅子さまに愛子さま誕生
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涙の流産を乗り越え、愛子さまをご出産された雅子さまの苦悩と喜びのすべてが一冊に。皇室という見知らぬ世界に入り、お子さまを生まなければならない重圧を、雅子さまはどのように乗り越えたのでしょうか。美智子さまから雅子さまに伝える母の想いを織り込みます。

 

 

美智子さまから雅子さまへ 三部作3 美智子さまもお支えに 雅子さまご成婚十年の苦悩
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愛子さまをご出産されたのち、適応障害になり長期の療養生活を送られた雅子さま。ご成婚から10年を迎え、病と闘われているご様子に触れた作品です。雅子さまをやさしく包み込む、皇太子浩宮さまと美智子さまの愛に胸打たれます。
 

本文、キャプションは過去の資料をあたり、
敬称・名称・地名・施設名・大会名・催し物名など、
その当時のものを使用しています。
写真/渡邉みどり(クレジットのないもの)
構成/高木香織、片岡千晶(編集部)

第1回「雅子さまの語学力を育んだ「家庭の方針」とは?〜幼少時のアメリカ生活と好きな童話」はこちら>>
第2回「雅子さまがロシア語を話せる理由〜モスクワでの幼少生活」はこちら>>
第3回「雅子さまの小学校時代の作文を公開「ピアノ、スポーツ、生きものがお好きなおてんば少女」」はこちら>>