「演劇」を活用し、さまざまなコミュニケーションで教育活動を行ってきた劇作家で演出家の平田オリザさん。大学入試改革にも携わっている平田さんは、演劇を学ぶ初の国公立大として、2021年度に開校する予定の国際観光芸術専門職大学(仮称)の学長就任も決まっています。連載「22世紀を見る君たちへ」では、これまで平田さんが「教育」について考え、まとめたものをこれから約一年にわたってお届けします。

 

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まさか前提そのものが間違っていたとは


前回は、新井紀子先生の『AI vs.教科書が読めない子どもたち』(以下『教科書が』と略す)を取り上げ、もっとも重要な(教科書から引用されたとされる)問題文自体が、実は教科書の原文とは違っていたこと、そして、そのことについて何の註釈もないのは不誠実ではないかという指摘をした。

この件は、様々な意味で興味深い。
この『教科書が』は、もともと毀誉褒貶の激しい書物で、ネット上にも多くの批判的な文章があがっている。その中には言いがかりのようなものもあれば、きちんとした学問的な検証もあった。しかし私が調べた範囲では、いずれにしても「そもそも、この問題文は教科書にない」という指摘は見つからなかった。
「原典、一次資料にあたる」というのは、学術論文の基本中の基本なので、これは、様々な批判的な文章を書いた側にも落ち度がある。

ただ、これも巷間、よく言われることだが、STAP細胞騒動でも旧石器捏造事件でも、大きな粉飾事件や捏造事件というのは、それが堂々と行われるものほど、そのあまりの堂々ぶりに根本のところが疑われにくいという構造を持っている。捏造が発覚してから、「まさか、その前提自体が違っていたとは」と多くの人はあきれかえる。

先回も書いたが、新井先生が捏造や粉飾をしていたということではない。というよりも今回の件が珍しいのは、書いているご本人も、おそらく原典に当たっていないという点だ。だから、きわめてイノセントに、〈この問題の出典は、中学の英語の教科書に出てくる「Alex(アレックス)」の註に出てくる文章なのですが、この註はつけても意味があるとは言えません。読んでも理解しない生徒が過半数だからです〉という、教科書批判まで書いてしまったのだと思われる。

さて、この連載も終わりに近づいてきた。
過去二回は、拙著『わかりあえないことから』をまとめる形で、コミュニケーションの問題と、来たるべき大学入試改革の課題の関連性を考えてきた。
一つは、「対話」と「会話」の違いについて。もう一点は、子供たち、若者たちのコミュニケーション能力が低下しているわけではなく、社会の変化に教育制度の変革が追いついていないだけだという指摘。入試改革の議論も、ヒステリックにならずに問題を切り分けて整理することが肝要だ。

 
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