パワハラ上司にブチ切れた! 「本能寺の変」の真相


大河ドラマで大注目の戦国武将・明智光秀(あけち・みつひで)
そのドラマティックな人生を、書籍『戦国武将物語 明智光秀 美しき知将』をもとに、全3回にわけてご紹介いたします。
(光秀の青年時代から信長と出会うまでは、第1回目の「① 本能寺だけじゃない! 明智光秀の青年時代をご覧ください)

第2回目では、明智光秀が、なぜ「本能寺の変」を起こしたのか。その真相に迫ります。

苦難を乗り越え、何人もの主人に仕えたのち、ついに時の人・織田信長(おだ・のぶなが)の家臣となった明智光秀。
現代にたとえれば、転職をくりかえし、やっとカリスマ性あふれる上司に巡り会えた!というところでしょうか。
 

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デキる男であった光秀は、信長のもとでつぎつぎと武勲を打ちたてたます。そして、信長の部下では秀吉(ひでよし)とならび、一二をあらそう武将となりました。

 

しかし、栄光の日々は、突然終わりを告げます。
ある日、信長に安土城へ呼び出され、いきなりこう言い渡されたのです。

「光秀、高松城へ行き、秀吉をたすけよ」

あろうことか、ライバルの秀吉をたすけよ、という命令。
これだけならまだしも、さらに衝撃的なことを言い渡されます。

「坂本城と丹波を召しあげる。かわりに出雲と石見を切り取り放題にせよ」

これは、天正10年(1582年)、5月17日のことです。そして、あの有名な「本能寺の変」が起きたのは、それからたった15日後のことでした。

どうして光秀は信長を討ったのか?  信長の忠実な部下として働き続けてきた光秀が、この命令をうけた後、半月の間に「本能寺の変」を計画し実行した……その最大にして直接の理由は、まさにこの「ありえない命令」にあったと言えるでしょう。
 


とんでもない上司とブラックな職場⁉

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信長の命令で次々と戦に駆り出される光秀。比叡山・延暦寺攻めは、僧兵ばかりか女子供もすべて焼き討ちにせよ、という過酷なものでした。

信長のもとで、休む暇もなく働き続け、戦に勝ち続けてきた光秀。
信長はそんな光秀を、従順で賢い猟犬のように、ぞんぶんに利用し続けました。

「光秀は、俺の命令には決してさからわない、無類の忠実もの」と考えていた信長は、光秀を次々と戦いに向かわせるだけでなく、朝廷との交渉役も任せます。光秀を評価していることをアピールしつつ、バンバン仕事を振ったのです。

そしてついに、
「お前に与えていた領地をすべて取り上げる。おまえは、ゼロから出発しろ。敵地へ行って、領土を奪い取れ」
と、無理難題を言い渡しました。光秀なら黙って従うはず、と思ってのことだったのでしょう。

当時、都をぐるりと囲む、近畿の地を治める重要なポジションを与えられていた光秀。織田の家臣で、これほどの待遇をうけていた武将はおらず、自他共に認める「出世頭」でした。
 

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そして、光秀にとっての坂本城は、みずから設計した愛着のある城です。しかも、主人である信長が、安土城を築くにあたって参考にした、といわれるほどの名城だったのです。

その坂本城と、さらに亀山城もあけわたし、ライバルである秀吉の加勢に行け、そのあとは、敵地である出雲と石見へ攻め込んでこいーー。

今まで忠実に仕えてきた信長から、これほどまでに過酷な命令を下された光秀は、どんなに落胆し、動揺したことでしょう。
しかしこれも、信長にとっては「天下を制するために、部下をどう効率的に動かすか」という戦略で命じだけにすぎません。

念願の「天下人」の座を前にして、部下への配慮がたりなかったのか、それとも「なにをやらせても巧みな光秀なら、うまくやるだろう」と信頼しきっていたのか……

信長は、デキる男であった光秀を「さらに必死で戦わせるために、領地を全てとりあげてしまえ」と目論んだのでしょうが、まさかこの15日後に、その信頼していた部下から自分が討たれるとは、思いもよらなかったのでしょう。

しかし光秀にとっては、天国から地獄へ突き落とされるような命令だったに違いありません。敵地で勝てればよいものの、もし負けたら、自分だけの事では済まないのです。大切に育ててきた一万三千の兵士たちを、城なしで路頭にさまよわせることになります。

とうてい、こんな理不尽な命令に従うことはできません。
そして、ついに光秀は心を決めました。

「ならば、信長を討つ」と。

冒頭で、光秀の人生を現代のビジネスマンにたとえました。
「転職の苦労を重ね、ついにカリスマ性あふれる上司にめぐりあえた!」と、かなりブラックな職場環境ではありつつも、休みもとらず必死に耐えて働き続け、出世した光秀。
しかし信長の無謀な命令がきっかけとなり、「カリスマ上司と忠実な部下」の関係は、完全に決裂してしまいました。


十三日天下の果てに


「本能寺の変」の後、光秀はどうなったのでしょう?
皆さんご存知の通り、光秀は「本能寺の変」で、信長を討つことに成功します。
しかしその後は、頼みにしていた細川藤孝(ほそかわ・ふじたか)や高山右近(たかやま・うこん)などを味方に得ることができず、秀吉との戦に破れてしまいました。そして、敗走のさなか、落ち武者狩りをしていた農民の竹槍によって、命をおとしてしまったのです。

「本能寺の変」から、たった13日後の事でした。

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54年の波乱の生涯は、わずか13日の天下を最後に、竹やりの一撃で幕を閉じた。

パワハラ上司・信長に反旗をひるがえすことには成功したけれど、味方はほとんどライバルである秀吉につき、そして、思いもよらない農民の一撃で人生をとじた光秀。
光秀の最後を考えると、どんなに無念だったことだろうと胸が痛みますが、彼の行動が、歴史に大きな転機をもたらした事は間違いありません。
「本能寺の変」によって、「秀吉の天下」、そして「家康の江戸幕府」への道がきりひらかれたのですから。

いかがでしょう。 光秀のドラマティックな人生からは、今を生きる私たちにとっても、教訓として学べることが、いろいろとあるのではないでしょうか?
 

次回の3回目は、光秀の時代を生きた女性たちについて知る番外編です。どうぞお楽しみに!
 

 

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『戦国武将物語 明智光秀 美しき知将』

小沢章友/作 kaworu/絵

明智光秀が生涯こだわった
「美しい生き方」とは?


「本能寺の変」で、天下人・織田信長を討った明智光秀。
激動の戦国時代、いちどは城を焼かれても再起し、何人もの主君につかえながら、ついに時の人である信長の家臣に。すぐれた戦闘能力と、文化人としての側面をあわせもつ光秀は、出世の階段をかけあがってゆくが…。
謎の多い最後の戦国武将、波乱の生涯!(小学中級から)


イラスト/kaworu『戦国武将物語 明智光秀 美しき知将』より
構成/北澤智子
 
この記事は、
現代ビジネス「本能寺の変」は、上司信長の「パワハラ」が原因か? 歴史を解くを元に、
青い鳥文庫編集部で加筆・再構成をしたものです

第1回「大河ドラマを10倍楽しむ! 明智光秀ってどんな人?」はこちら>>