ペットの高齢化とペットロス問題


日本で空前の猫ブームが起きたのは2007年のこと。和歌山電鐵・貴志駅の売店で飼われていた三毛猫が、「駅長」として正式就任したというニュースがきっかけでした。
そのブームから13年経ったいま、飼い主たちが直面しているのがペットの高齢化と、死別によるペットロスの問題だといわれます。

2019年2月7日付の楽天WOMANの記事によれば、昨年、東京・外苑前にオープンして話題を呼んだペットロスカフェ(ペット用仏壇・仏具販売店「ディアペット東京本店」内)の訪問者には、既婚・未婚を問わず40代の女性の姿が多く、その特長として、子どもの成長とともに夫婦の会話が希薄になりペットへの愛着が強まっているケースや、ペットが唯一の同居人のような存在になっているケースが目立つといいます。

「ペットロス症候群」とは、ペットを失うことによって精神的・身体的にさまざまな不調が引き起こされることで、ペット産業の盛んな米国では1990年代から、日本でも2000年代頃から注目を集めるようになりました。

その症状には、不眠や摂食障害、疲労や虚脱感、情緒不安や消化器系の不調など個人差がありますが、ペットロス症候群を克服するためには、ペットを失った悲しみを〈悲しみ〉として、苦痛を〈苦痛〉として、自然な心の流れを辿ることが一番だといわれます。
 

ペットロスの哀しみをツイッターで吐露した画家・横尾忠則

 

日本を代表するアーティストとして知られる横尾忠則氏もペットロスを経験した一人。
彼の新刊『タマ、帰っておいで』は、ペットロスの哀しみから彼が再生するまでの日々を綴った日記と、愛猫タマが亡くなった当日から描きはじめたという91点にもおよぶタマの絵で構成された〈レクイエム〉画集なのです。

 

都内にありながら緑豊かな横尾家の庭に、見慣れない野良猫がふらふらと現れたのは1999年頃のこと。

 

右目は傷つき、からだはひょろひょろで、お世辞にも器量よしとは言えない雌猫でしたが、横尾氏が呼んでもエサを食べない他の野良猫と違って、彼女だけは自ら歩み寄ってきたといいます。

当時すでに2匹の飼い猫を見送り、その猫たちの喪に服すため、新しい猫を飼うつもりはなかったという横尾氏でしたが、右目が潰れかけた貧相な姿に〈自ら運命を切りひらく猫の力〉を感じた彼はそれを受け入れ、いつしか猫は横尾家の台所に上がるようになり、そのまま横尾家の一員になっていきます


ある日、エサを食べ過ぎた猫の腹がまるでダチョウの卵が入っているかのように丸々と膨れあがり、その姿から「タマゴ」と命名されますが、猫の名を呼ぶたびに妻に〈卵〉を催促しているようで塩梅が悪いと、〈ゴ〉を省略して「タマ」と呼称されるようになるのです。

しかし、2010年9月。雌猫の習性から普段は家の周囲以外には出ないタマが瀕死の状態で帰宅します。横尾氏はタマを抱いて獣医に駆け込み、奇跡的に一命をとりとめますが、庭に現れたときにすでに成猫だったタマは、このとき80歳(猫年齢18歳)の老猫になっていました。 

この復活劇をきっかけに、横尾氏とタマの関係に変化が現れます。
アーティストは愛猫を通して〈老い〉を見つめ、飼い主と猫は次第に老いを支え合うパートナーへと深化していくのです。

 

〈ふたり〉の変化は、日記のなかにも現れます。タマの復活劇から3年後、2013年9月25日の日記を本書から引用しましょう。

「タマ、老齢のため人恋しいのか、
ぼくの後ばかりついて廻る。
食卓、トイレ、風呂、ベッドと。
ぼくも老齢のためネコ恋しい」

このとき横尾氏は77歳の喜寿を迎えていました。

そして、2014年5月31日がやってくるのです。
――タマ永眠。
ひどく動揺しながらも横尾氏は筆をとると、タマのデスマスクを描きはじめます。
それまで「絵が幼くなるから」と避けてきた〈猫〉の絵を、描かずにはいられなかったのです。

タマの死の翌日は、公園で半日を過ごし、横尾氏はただただ愛猫を思い続けます。
そして翌6月2日11時16分08秒、横尾氏のツイッターにアップされた一文。

「タマ死す。愛の対象の不在と喪失感に現実はあってないも同然。」

連続して9本のツイートを投稿した横尾氏は、タマの死による深い哀しみの闇に沈んでいきます。ここから横尾氏と「ペットロス症候群」との闘いがはじまるのです。

本書『タマ、帰っておいで』に収められた日記の2/3は、タマの死後に彼を襲った悲嘆と苦悩、孤独、そして再生の記録です。

しかし、アーティストには「絵」がありました。
横尾氏は自らが病床にあってもタマの絵を描き続け、デスマスクにはじまった愛猫の絵は91枚もの大作になっていきます。

タマの死を嘆きながら一枚。タマへの愛を叫びながら一枚。

絵を描きながら、横尾氏は〈死〉の世界へと旅立ったタマと、夢のなかで新たな交流をはじめ、ペットロスから清々しく再生していくのです。

日記から、そして掲載された91枚のタマの絵から、溢れる愛。

横尾氏の心の軌跡をたどる本書は、愛猫家はもちろん、猫に興味のない者の胸にも爪痕を残します。それは、横尾氏の庭で自ら運命を切りひらき、死後、アーティストの〈女神/ミューズ〉となった野良猫タマが残した愛おしく美しい爪痕なのです。 


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『タマ、帰っておいで』

横尾 忠則 (著) 2200円(税別)

「この絵はアートではない。猫への愛を描いた」――横尾忠則
横尾さんが愛した猫「タマ」の絵が一冊の画集に。
愛猫「タマ」が亡くなったその日から、魂を鎮めるために描いた、91点にもおよぶタマの絵。そして、この本には横尾さんが折々に綴ったタマに関する文章や日記が多数掲載されています。
横尾さんの愛にあふれた「タマ」にまつわる文章や日記は、すべての読者に、「愛」とは、「生きる」とは、「死」とは、いったいなんなのかを問いかけます。
猫を愛する読者、そしてアートを愛する読者の人生に、そっと寄り添うような1冊。

横尾忠則(よこお・ただのり)
1936年兵庫県生まれ。1972年にニューヨーク近代美術館で個展。その後もパリ、ヴェネツィア、サンパウロ、バングラデシュなど各国のビエンナーレに出品し世界的に活躍する。アムステルダムのステデリック美術館、パリのカルティエ財団現代美術館での個展など海外での発表が多く国際的に高い評価を 得ている。2012年、神戸に横尾忠則現代美術館開館。2013年、香川県豊島に豊島横尾館開館。2015年、第27回高松宮殿下記念世界文化賞受賞。(撮影/三部正博)

文/寺田 薫