『貴之さんにも幸せになって欲しい』
そのセリフは、早希に心臓を突くような衝撃を与えた。
酷い扱いをされ暴力まで振るわれたというのに、それでも美穂は夫を許そうとしている。幸せを願っている。早希には理解できない感覚だ。
「私はもう彼と一緒にいられない。でも、だからこそ、幸せでいて欲しい……」
言いながら、美穂の目からついに涙がこぼれ落ちた。
ホールに飾られた巨大な白い装花の前で、美しい涙を流す美穂……その、まるで聖母のような表情を見て、早希は胸を締め付けられる思いがした。
「もう……美穂は人が良すぎるよ……」
そうだ、美穂は優しすぎる。DVなどという酷い目に遭ってしまったのも、彼女の優しさと包容力につけ込まれた側面だって否定できない。
もちろんそれが美穂という女の魅力で、だからこそ独身時代はもちろん、妻となり母となった今も男性は彼女を放っておかない。DV夫との関係においては美点が裏目に出てしまっただけだ。
28歳で婚約破棄を経験したとき、早希は相手の幸せなんか願わなかった。その後すぐに彼が別の女と結婚したと聞いたときにはむしろ不幸になれと願ったし、12年が経った現在だって、仕方がなかったとは思うが許す気には到底なれない。
――私は「本当の愛」を知らないのかもしれない……。
まもなく40歳になろうというのに、誰かを本気で愛したことも愛されたこともない。もしかしたらこの先も、もう一生ないのかもしれない。
そんな考えが頭に浮かび、美穂に比べて自分がひどく未熟者のように感じられた。
早希の人生はいつだって自分が主人公だ。美穂のように夫のため、子どものために自分を犠牲にした経験などない。そうしたいと思ったこともなかった。
けれどそれは裏を返せば「自分しかない」ということでもある。
「早希、今日は付き合ってくれて本当にありがとう。これで私、本当の意味で再スタートできる気がする」
決意を込めるようにゆっくりと呟き、美穂は目を細めた。
モーヴ色のアイシャドウが上品に輝いている。表立って主張はしなくとも、妻となり母となった女の、静かな強さがそこにあった。
男の嫉妬……同期がまさかの裏切り!?
「進藤さん、ちょっと」
美穂が夫と直接対決を果たした数日後。ランチを終えてオフィスに戻ると、席に着くと同時に編集長から呼び止められた。
「はい」と答えながら緊張が走る。人事異動の話に違いない。
早希がいま担当しているアラサー向けファッション誌は、春に月刊廃止が決まった。そのタイミングでママ雑誌の編集長にならないかと打診を受けたのだが……正直に言ってしまうと、話をもらった瞬間から乗り気ではなかった。
もともとママ雑誌というカテゴライズに思うところがあったし、美穂の騒動があって、なおさら属性など関係なく支え合える関係の尊さを痛感した。
――もうハッキリと断ろう。
会議室で編集長と向き合い、早希は覚悟を決めて唾を飲む。
しかし言葉を発しようとしたちょうどそのとき、しきりにメガネを触っていた編集長が予想外のセリフを口にした。
「進藤さん、ごめんなさい。ママ雑誌の編集長だけど……堂島くんにお願いすることにしたわ」
――え!?堂島に……?どうして?まさか……。
刹那、混乱する頭に堂島との口論が思い出された。
オフィスの廊下で出くわした際、つい売り言葉に買い言葉で「私は別に編集長なんかやりたくない」と余計なことを言ってしまったのだ。
「あの、もしかして堂島さんが何か……?」
戸惑いつつ尋ねると、編集長は表情をまったく変えずに「ええ」と頷いた。
「進藤さんが乗り気じゃなくて困っていると聞いたわ。それならむしろ自分が、と堂島くんが立候補してきたの。でももちろん、それだけじゃない。諸々の判断で決まったことだから」
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