2021年3月28日に35歳の若さで天国に旅立った料理研究家の高木ゑみさん。
1月にミモレのロングインタビューに応え、自らの波乱万丈の半生を語ったばかりでした。

 


生前のインタビュー記事
インタビュー第1回:コロナ禍に空き巣、詐欺、そしてステージ4の肺がん宣告…でも前向きな人気料理研究家>>

インタビュー第2回:末期がんを患う35歳の人気料理研究家「人生のどん底からの抜け出し方」>>

もうご本人に話を伺うことは叶いませんが、学生時代からの友人であるアヤコさんとリエさんがゑみさんを追悼します(お名前は仮名)。
ご家族から聞いた「最期のとき」を知る二人が、明るく笑顔で話すのには、大切な理由があるのです。
前回記事から続きます。

前回記事
35歳肺がんで急逝した料理研究家・高木ゑみさん「誰よりも濃く太い生き方」>>

ゑみさんがインスタグラムで投稿した最後の笑顔

──ゑみさんご本人は「甘々だった自分」と言っていましたが、実は学生時代からしっかりされていたんですね。卒業されてからはお料理の道まっしぐらで24歳の若さで起業されました。

リエさん:大学時代、周りが皆、就職活動をしているなかで、ゑみだけはそんな空気に流されず、熱心に料理学校に通い続けました。
一方でご家族は皆さん、堅い職業に就いていたこともあって、「卒業したらどうするんだろう」と、心配されていたと思います。

でも、友だちは誰も心配していなくて、
「ここまで自分がやりたいと思えること持っている大学4年生はいないですよ。それを持っていることはうらやましいことだし、彼女はサポートする人が寄ってくるところがあるし、私たちは心配ではなくむしろ楽しみにしていますよ」
とお伝えしたこともありました。

たとえ意見したところで、ゑみは絶対に聞かないですしね。
自分のやりたいことをやろうっていうのがゑみ。人に指示された通りにやるなんて、彼女は性格的に絶対合わないので、サラリーマンになるなんてあり得なかった。
ただ、最初から起業を目指していたというわけではありません。お料理が好き、人々をおもてなししたい、喜んでもらいたい。そういう自分のやりたいことを実現できる方法が料理塾を開くことだったのです。

料理塾、ケータリング、講演会、プロデュース業……著書『考えない台所』も14万部のベストセラーとなり活躍。

アヤコさん:ご家族からも周りの誰からも愛されてきたから、ゑみにとって怖いものは何もなかった。
けれども、起業するまで突き進んだところで、コロナをはじめいろいろな目に遭いました。なかなか思うようにはいかないという初めての挫折を経験し、その挫折が彼女をより強くさせたし、何があっても立ち向かえる勇気を育んだのだと思います。

リエさん:本当に彼女は強いです。がんの宣告を受けるひと月くらい前から、腰が痛いとは聞いてはいたんです。
仲間の誕生会でゑみに会うことになっていた日、「ごめん、今日は検査入院をしなければいけなくなったから行けない」と連絡があったのですが、誰もまさかか重い病気だとは夢にも思っていなかった。
そうしたら2日後に、「実はステージ4のがんで……」と言われ、まさに青天の霹靂でした。

ゑみ本人は、すぐにSNSで公表することを決めていて、3日後には自分自身の声で状況を説明し、前向きに病気を向き合うことを宣言してみせました。


ゑみは、そういう自分の姿を皆さんに逐一報告することで誰かの力になれればいいと考えていたんです。

アヤコさん:ゑみが入院していたのは千葉の海が見える病院で、当時はまだコロナによる面会謝絶にはなっていませんでした。
私はすぐに飛んで行きましたが、親友がステージ4のがんだなんて理解できなかったし、受け入れることもできなかった。ゑみは、ゑみの顔を見て泣き崩れた私を抱きしめ、そして叱ったんです。
「なんでそんな泣いているの? 私が死ぬとでも思ったの?」

ゑみだってとても怖かったはずです。あのときはたぶん、自分は治るんだって自分にも言い聞かせていたのでしょう。
でも告知の3日後にSNSで病気を公表したときには、もう本気で治ると信じていました。このエネルギーはどこから出てくるんだろうと、あらためてゑみを尊敬しました。

──目の前に怪獣が出てきたら、逃げるか、闘うか。ゑみさんは「私は向き合って仲良くなる」と言っていましたね。

リエさん:「怯えて生きるより、ワクワクして生きたい」というんですね。
病気になったことで塞ぎ込んでいても時間の無駄だし、周りも自分自身にとってもポジティブなことは一つもない。
「これでリカバーしたら私、最強だよね。ある意味、テレビに出演する時のネタになるよね!」と前向きに語るんですよ。

そして、こうも言いました。「最善を期して最悪を備える」。
ポジティブに前を向くというのは、イコール死を覚悟しないということではない。自分がもし他界したら、それさえも他の人たちにとってポジティブな経験にしてほしいと考えたのだと思います。

アヤコさん:最後までグラノーラ作りに精を出していたのも、自分が病を経験して、食べる際の負担がなく、闘病中の人も食べやすいオーガニックのグラノーラを作ることが誰かの役に立つと考えたからなんです。
ですから、採算度外視で身体にいい材料を吟味して手作りし、メッセージを添えて梱包し、自分で宅配の窓口に運び入れていました。

ゑみさんが退院後に完成させて、販売していた「ほほゑみグラノーラ」。手作りなのはもちろん、手書きのカリグラフィーのメッセージも添えて、購入者に送っていました。約500件の注文を受けるほどの人気に。

リエさん:お母さまが運ぶと言っても、ゑみは自分がやると言って譲らなかったんです。3月24日に再入院する前日まで、つまり亡くなる5日前まで、グラノーラを作っていたそうです。

【写真】末期の肺がん、最後まで笑顔だった闘病生活
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