ホテルに飛び込むと、まさに例の彼が迎えてくれた。
「ハロー、僕はマティアス。ソフィに聞いてるよ。災難だったね」
にっこりと笑みを浮かべ、英語で話しかけてくれて少し安心した。でも頭の片隅で「これがソフィの『お尻ぺンペン彼氏』か……」と、つい考えてしまう。
「マティアスはね、盛り上がってくるとお尻を叩くの。パーンッ! って、そりゃもう強烈に」
ソフィがうっとりするように語ったのが、あまりにも印象的だった。
年配の責任者らしい白人男性が出てきて、早速裏手に案内される。専用の上着を渡され、掃除機や清掃ワゴンの説明をしながら「日本人なら安心だ」、「日本人なら問題ない」と繰り返す。
やはり日本人はキレイ好きで几帳面、真面目、というイメージがあるらしい。私もとりあえず愛想笑いをしておいた。
ホテルの外観は古めかしかったけれど、中は改装されていてモダン。映画館と同じで、街並みとしては落ち着いていてシックなまま、建物の内側は意外と変化している。
客室階に上がると既に働き始めている黒人女性の姿があり、責任者は「彼女に付いて教わるように」と去っていった。けっこう適当だ。
女性は愛想笑いゼロで私を一瞥し、くいと顎をしゃくって室内に促した。
ゴミ回収、拭き掃除、掃除機がけ……ぶっきらぼうでもきちんと教えてくれる。フランス語なので説明の詳細はわからないけれど、身振り手振りからなんとなく理解できる気がする。私は「ウィ」を連発しながら、必死で働いた。
共に数部屋を片付け、すぐに分かれて働くことになった。一人で大丈夫だろうかと心配したものの、清掃の流れはすぐに摑めた。ベッドメイキングにはこつがいるが、ピシッとセットできると気持ちいい。どうしても時間はかかってしまうけれど、適当にやるよりいいだろう。どうせ代理なんだし。
女性の後、私も三十分の休憩に入った。久々に身体を動かしたせいかお腹がぺこぺこ。でもお昼の用意はしてきておらず、買いに出るには時間が短すぎるような……
とりあえずソフィに報告メールを打つ。ちょっと考えて、啓介にも連絡を入れておくことにした。昼に連絡を取り合うことなどほぼ皆無ではあっても、ソフィの代理勤務で手が離せないことを念のため伝えておく。
お昼は諦めてぼんやりしていると、マティアスも休憩室にやってきた。
「ランチ食べた?」
「食べ損ねちゃった」
「かわいそうに。ちょっとだけど、これ食べなよ」
人懐っこい笑顔でチョコレートバーを差し出され、ありがたく頂く。
――こういうさりげない優しさも、ソフィは好きなんだろうな。
どうしても「ソフィの愛人」というフィルターで見てしまうことを申し訳なく思いつつ、ちらちら横目で観察していると、マティアスがにんまりと口角を上げた。
「ソフィから君の話は聞いてるよ。君も僕の話、聞いてるだろうね?」
私は真っ赤になってしまったと思う。小さく頷くと、彼はくすくす笑った。
「君、いくつ?」
「33」
「えぇ⁉ 僕とそんなに変わらない歳かと思った」
マティアスは本当にびっくりしたようで、くりんと目を剥いた。その飾らない表情が、ずいぶん幼く映る。
「あなたは学生なんだよね。いくつ?」
「20歳」
チョコバーが喉に詰まった。確かソフィは40。自分の半分の歳の男の子と身体を重ねるって、どういう気持ちなんだろう。
「僕は年上女性が好きなんだ。君は、年下の男は好き?」
くっきりした二重の目が怪しげにきらめく。私は少しむせながらチョコバーを飲み下すと「もう行かなきゃ」と立ちあがった。
と、マティアスも立った。私を壁に追い詰めるように近づいてきて、進路を塞ぐ。
顔が小さく小柄に見えるが、ぴっちりとした制服から、いつかソフィが語ったように筋肉質な身体を隠し持っているのがわかる。黒々と濃く悩まし気なまつ毛に囲まれた、焦げ茶の瞳。ワイルドな鬚を感じさせる、顎の青い剃り跡。
甘くむせるような香水の匂いに包まれ、私は固まってしまう。
「ここ」
マティアスは、自分の唇の端をちょんと示した。私が慌てて口の周りについていたチョコを拭うと、ブーッと吹き出した。
――からかわれたんだ……
恥ずかしさに悶えながらマティアスの横をすり抜けようとした瞬間、パーンッ! とお尻を叩かれた。心臓が飛び出そうになる。
「ボンクハージュ(がんばって)!」
にっこり手を振られたが、返す余裕はなかった。
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武臣との約束の日がやってくる。夫への言い訳や着ていく服にそわそわする葉子だったがーー。
撮影・文/パリュスあや子
第1回「フランスと日本の不倫の代償」>>
第2回「夫に明るい顔を見せてあげるのも駐在妻の仕事のうち?」>>
第3回「明日の夜も空いてるかな?」>>
第4回「私が浮気してしまうのは、夫のせい」>>
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