嘘と秘密
「申し訳ありません、部長、高木さん。じつは病気になってしまいました。できれば数週間以内に手術をしたいので、お休みをいただくことは可能でしょうか」
「病気だって? どこの? 大丈夫なのか、一条」
50過ぎの、普段は部下に仕事を押し付けてカラカラ笑っている部長と、何につけても冷静で有能な高木が、瑤子の話を聞いて腰を浮かせる。
「はい、初期の乳がんという診断です。自覚症状はまったくないので、仕事に現状支障はないんですが、手術はできるだけ早いほうがいいと医師に言われまして……」
「……初期か。運がいいぞ一条。仕事なんてなんとでもなる、手術はいつだ? 早いほうがいい、明日からでも休んでいいぞ」
部長が珍しく真剣な顔で畳みかけ、高木も力強く頷いた。
「ご家族には? 金沢の親御さんも心配してるだろう」
「いえ、まだ母には言っていないんです」
高木は眉をしかめた。瑤子は独身の一人暮らしという設定なので、おそらく頼る者がいないのを不憫に思ったのだろう。
「実は、これまで報告していなかったんですが、シングルの妹と姪と同居しています。勝手な言い分なんですが、私が大黒柱なのでできれば……なるべく早く病気を治して、また営業として復帰したいと考えています」
瑤子は一息にそう言うと、頭を下げた。これを言うのがつらかった。しかしどうしても希望だけは伝えておきたかった。
去年、大病のあとに営業から総務事務に異動になった社員を見ている。
負担を減らすための人事部の心配りに違いなかったが、瑤子は自分の気持ちだけは伝えておかねばと焦っていた。
すると部長と高木が顔を見合わせ、少し頬を緩めた。
「そうか~、一条も家族背負ってるのか。俺も子ども二人私立にやったとこでボーナスダウンして四苦八苦だよ。わかるわかる、責任重大だよなあ、稼ぎ頭は」
「それじゃますます早く治さないと。おい、どこの医者だ? 有明のがんセンターはどうだ、知り合いの医者がいるから今から聞いてみようか」
「あ、いえ、執刀は……かかりつけの先生を信じてお任せすることにしました。あの、部長、高木さん、ありがとうございます。ご迷惑をおかけしますが……傷病休暇として2週間程度、その後は放射線治療に通いますが、極力就業時間にかぶらないように努めます」
「2週間? それっぽっちか、一条は有休もたまってるだろ、くっつけてもう少し休んだらどうだ。総務に聞いてやるから、こういう時は会社員の特権を生かして養生しろ。
なあに、元気になって、また働けばいいんだ、人生長期戦なんだから」
瑤子は深く、頭を下げる。涙はかろうじてのみこんだ。
どこかでずっと、仕事もプライベートも成果を焦っていた。
不確かな関係は脆く、意味がないとばかりに、よりかからないように必死だった。
でも、高木と部長、そして彰人の言葉にはその思い込みを洗い流すシンプルな強さがあった。
嘘も秘密も、もういらない。そんな必要ははじめからなかった。
病気を治して、これからも仲間と働く。
彰人と一緒に笑いながら、春奈と英梨花と支え合い、毎日をただ精一杯生きていく。
瑤子は今度こそ正直に、明るい未来を思い浮かべ、大きく息を吸った。
第1回「美しき大黒柱の43歳に突然届いた、非情ながん検診結果。その時彼女がとるべき行動とは?」>>
第2回「「がんになった」と誰にも言えない。43歳で突然の「乳がん宣告」を受けた女性の迷い」>>
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