本音


「どうして有希さんが行かないんですか?」

翌日、珍しく打合せのない午後、部署は閑散としていた。積み残していた仕事をどんどん片付けていると、麻衣がデスクにやってきた。今日はリモート予定とあったが、午後から出社にしたらしい。

「……ああ、シアトルのこと? マルチリンガルな麻衣ちゃんにピッタリの案件よ。きっとすごく勉強になるし、先輩として若いうちに行ってきてほしいな」

「推薦は嬉しいですけど……有希さんだって、まだシアトルの調印には行ってませんよね? 有希さんを差し置いて若輩の私が行くわけにいきません」

麻衣の、怒ったようなまっすぐな目が、有希を射抜いた。深く息を吐き出す。

サラリーマンらしくまずは部長に報告、というのを言い訳にぐずぐずしてしまったが、本当は毎日関わっている人から順に、話すべきだったのかもしれない。

とくに麻衣は、日々一緒に仕事をしているのだから、これからシアトル出張のように影響が出るのは間違いなかった。

それをしなかったのは、理由がある。有希はそれを認めざるをえなかった。

「好きな人ができた」出会って18年目の離婚。38歳妻の身動きを封じた夫の告白_img0
 

可能性がたくさんある麻衣の前では、「カッコイイ女性総合職のお手本」でいたかった。

この会社には仕事もプライベートもうまくやる、10歳上の先輩がいる。実は男性社会の航空会社総合職で、きっと自分も長くキャリアを重ねることができる。

ときに世代格差を感じるほどに若い麻衣にそう思ってほしくて、そうなってほしくて、これまでずいぶん偉そうにアドバイスをしてしまった。

本当は、1年前に良平から「好きな人ができてしまった、別れてほしい」と言われたあの日から、破綻していたのに。

それを認めたくなくて、必死で「軌道修正」しようともがいていた。挙句、良平の心は戻らないと悟ってからは一転、せめて理性的でいようと努めた。離婚届を出してからも、暮らしは変わらないと思い込みたくて、すべて飲み込んだ。

「麻衣ちゃん、私ね……」

意を決して麻衣を見たとき、デスクの上のスマホが振動した。就業中はあまり鳴らない、プライベートのスマホのほうだ。保育園かもしれない。有希は「ちょっとごめんね」と手に取る。

表示名は良平。

几帳面な有希のスマホで唯一、18年前から表示名がファーストネームのみの男だった。

 
次週予告:6話/有希の話【後編】元夫・良平の驚きの話に、有希はある決心をするが……?
構成/山本理沙

 

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