本音
「どうして有希さんが行かないんですか?」
翌日、珍しく打合せのない午後、部署は閑散としていた。積み残していた仕事をどんどん片付けていると、麻衣がデスクにやってきた。今日はリモート予定とあったが、午後から出社にしたらしい。
「……ああ、シアトルのこと? マルチリンガルな麻衣ちゃんにピッタリの案件よ。きっとすごく勉強になるし、先輩として若いうちに行ってきてほしいな」
「推薦は嬉しいですけど……有希さんだって、まだシアトルの調印には行ってませんよね? 有希さんを差し置いて若輩の私が行くわけにいきません」
麻衣の、怒ったようなまっすぐな目が、有希を射抜いた。深く息を吐き出す。
サラリーマンらしくまずは部長に報告、というのを言い訳にぐずぐずしてしまったが、本当は毎日関わっている人から順に、話すべきだったのかもしれない。
とくに麻衣は、日々一緒に仕事をしているのだから、これからシアトル出張のように影響が出るのは間違いなかった。
それをしなかったのは、理由がある。有希はそれを認めざるをえなかった。
可能性がたくさんある麻衣の前では、「カッコイイ女性総合職のお手本」でいたかった。
この会社には仕事もプライベートもうまくやる、10歳上の先輩がいる。実は男性社会の航空会社総合職で、きっと自分も長くキャリアを重ねることができる。
ときに世代格差を感じるほどに若い麻衣にそう思ってほしくて、そうなってほしくて、これまでずいぶん偉そうにアドバイスをしてしまった。
本当は、1年前に良平から「好きな人ができてしまった、別れてほしい」と言われたあの日から、破綻していたのに。
それを認めたくなくて、必死で「軌道修正」しようともがいていた。挙句、良平の心は戻らないと悟ってからは一転、せめて理性的でいようと努めた。離婚届を出してからも、暮らしは変わらないと思い込みたくて、すべて飲み込んだ。
「麻衣ちゃん、私ね……」
意を決して麻衣を見たとき、デスクの上のスマホが振動した。就業中はあまり鳴らない、プライベートのスマホのほうだ。保育園かもしれない。有希は「ちょっとごめんね」と手に取る。
表示名は良平。
几帳面な有希のスマホで唯一、18年前から表示名がファーストネームのみの男だった。
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