私たちは避妊をせず、もう六年になる。

つまり、自然に授かることはないのではないか……

三十歳の誕生日が刻一刻と近づいてきて、不安にならないこともない。でも積極的に子供が欲しいかというと、そうとも言いきれなかった。

子供ができたら「完璧な家族」を作らねばと、自らに呪縛を課してしまいそう。逃げられなくなる――そんな恐ろしさを抱えながら、子育てなんてできるんだろうか。

「ちょっと出かけない?」

十八時少し前、仕事を終えたらしいマルゴに声をかけられた。

ロックダウン終了後も夜間外出制限は残っているものの、段階的に緩和されて二十一時まで気楽に外をふらつけるようになっていた。カフェやレストランのテラス席も再開し、街は長かったロックダウンから解放され、浮き立つ人々で溢れている。

とはいえ未だにコロナの感染者は多いことから「人混みは避けたい」という私の意志は変わらず、カンタンもそれを尊重して今まであまり出歩かないでいてくれていた。

「ビュット=ショーモン公園で散歩なんてどう? 身体も動かさないと、ね?」

でもマルゴが切実に気晴らしを求めているのが伝わり、私は手早く眉毛を描いた。

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家からほど近いビュット=ショーモンは、パリ市内では最大規模の公園のひとつ。緑が多く起伏も多く、小川に滝、洞窟まであり、チュイルリーやリュクサンブールのように美しく整備されたフランス式庭園とは違うダイナミックさが魅力だ。

 

以前はよく歩く散歩コースだったけれど、週末はランナーが溢れ、天気の良い日はピクニックや日光浴をする人で丘がぎっしり埋まる人気ぶりなので、密を避けたい最近は疎遠にしていた。

「すごい人……」

やっぱりな、と眉間にしわが寄る。

今も外出中はマスク着用義務があり、違反すれば罰金を取られることもある。でもひっきりなしにすれ違う人たちは、顎マスクや完全に外して腕に着けていることも多かった。歩きながらビールを飲み、煙草を吸えばもちろんマスクはしない。

コロナ禍の規則を守っているフランス人もいれば、守っていない日本人だっている。だから「これだからフランス人は」と一括りに批判しないように気を付けてはいるけれど、こういうとき、つい苛立ってしまう。

「二人とも一度目のワクチンは打ったんでしょ? 私もこの前打ってきた。そこまで心配しなくても大丈夫よ、野外なんだし」

マルゴはつい身を縮めてしまう私を豪快に笑い飛ばした。

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吊り橋のかかっている見晴らしの良い小高い岩山は大人気で、たくさんの人が眺めを楽しんでいる。そわそわ居心地悪くしていた私にも、ゆったりとした平和なパリの遠景は響いてくるものがあった。

マルゴも嬉しそうに携帯のカメラアプリを開いた。

「撮ろうか?」

「いいよ、祐希を撮ってあげる――っていうか、皆で撮ろうよ! ほら、マスク取って」

躊躇したものの、マルゴとカンタンに倣って一瞬マスクを取り、三人でセルフィーに収まる。笑顔バージョンと悪ノリの変顔バージョン。こういうノリ久々だなぁと、なんだかしみじみしてしまった。

でも撮影が終わるや否や、そそくさとマスクを着ける自分はやっぱり小心者だ。

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緩やかな斜面の丘で、周囲と少し距離を取って座れそうなところを見つけ、家から持参したチップスとビールで乾杯した。暮れていくまだ明るい空を眺めながら、そういえば十九時以降の外出も半年以上ぶりだなと気付く。

「この公園、昔は採石場で、それから悪臭を放つゴミ捨て場になっていたところを、ナポレオン三世とオスマン男爵が大改革して1864年に作られたものなんだって」

マルゴはタバコをくわえながら検索し、

「でも今だって、パリはどこもゴミ捨て場みたいなもんだよね」

と、気だるげに細い煙を吐くと、ベンチの下に転がる空き瓶や、道に落ちているマスクを見て皮肉っぽく笑った。

「そういえばSNSで、パリのひどい有り様をアップするのが流行ってたね」
カンタンも肩をすくめる。

「#saccageparis(荒らされたパリ)」というハッシュタグで検索すると、ゴミで溢れた道や壊された公共物、街中のドブネズミなど幻滅するイメージがぞくぞく出てくる。街が汚くて耐え難い、パリのキラキライメージの押し売りは止めろ、というパリジャンによるアンチパリとでもいえる運動が盛り上がり、一時期賛否両論が巻き起こっていた。

「あーあ、こんな暮らし最低。もう嫌。田舎にでも引越そうかな」

 パリ大好きのマルゴが虚ろな瞳で心にもないことを言うなんて、これは重症だなと感じざるを得ない。

「パスカルには、今夜どこに泊まるか話してあるの?」

「心配しないで。数日で出て行くから」

マルゴはカンタンを睨みつけてみせたものの、

「ただコネコ連れだと友達の家に行きにくくて。最悪の場合、ちょっと預かってもらえる?」

早口に付け加えてビールを呷り、ぷぅッと弱気な息を漏らした。

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「そんなわけで今日明日はうちに猫を置いて、友達の家に泊めてもらうみたいです。で、また日曜の夜に戻ってくると……」

金曜日、久々に出勤して盛大に宏美ひろみさんに愚痴った。

「そりゃ大変だねぇ、梅干しあげるから元気出しな」

仕事でも人生でもパリ生活でも大先輩の宏美さんは、五十代半ば。実の母よりよほど頼れるお母さん的存在だ。

「ありがとうございます、私一人で大事に大事に頂きます!」

この有り難みがわからない者には決してわけてやらぬ……おすそ分けしてもらった梅干しを押し頂く。

在宅勤務は気楽ではあるけれど、時々会社で宏美さんと会っておしゃべりできるとホッとする。この日は仕事の後、一緒にアジア系食材の買い出しに行く約束になっていた。

 
パリには二つの大きな中華街がある。

ひとつはヨーロッパ一の規模を誇るというパリ南部・十三区のプラス・ディタリーからトルビアック、ポルト・ディヴリーにかけての一帯。そしてもうひとつが我が家の近く、北東部・二十区のベルヴィルだ。

私はいつでも気楽にベルヴィルに立ち寄れるけれど、宏美さんはリュックを背負って出社し、買い溜める気満々だ。

「今の時期、オクラ売ってるかなぁ。豆腐屋さんで油揚げ、あとおからもあれば……」

日本食材ならオペラ地区が最強だが、高い。日本食材を卸す仕事をしているから、輸送費や関税、手数料など値段が高くなる理由もよくわかっている。が、慎ましく暮らすには中華街で安い食材を買い求めてやりくりしたほうが経済的なのだ。

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メトロのベルヴィル駅から地上に出ると、賑やかな交差点。宏美さんと連れ立って坂を登る。

「Belleville」は「美しい街」の意味。でも、白い石造りの重厚で欧風な街並みを思い浮かべると裏切られる。大小様々なアジア系レストランやスーパーがひしめき、グラフィティも多い。この数年で裏道はずいぶん綺麗に整備されたけれど、私は混沌とした熱気が漂う昔のごちゃっとした道が好きだった。フランスを代表するシャンソン歌手、エディット・ピアフの生まれた地でもあり、今もカフェの壁には悲痛な顔をした彼女の巨大なグラフィティがある。

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「この肉マンが食べたかったのよー!」

「私は餅マン派です」

買い出し前に中華レストランでテイクアウトし、せっかくの青天を満喫しようとベルヴィル公園まで更に登った。

パリの公園で最も標高が高く、モンマルトルの丘とほぼ同じ128mに位置するらしい。なのに、あまり知られていない穴場。私はこの高台から眺めるパリが一番好きだ。モンパルナスタワー、アンヴァリッド、ノートルダム、エッフェル塔まで一望できる。

七月十四日の革命記念日・パリ祭の花火をここから眺めたこともあるけれど、さすがにすごい人出で身動きするのも一苦労。近くで大麻を吸う若者たちもいて閉口した。

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この日もそれなりに賑わっていたものの、人との間隔は充分開けられる。久々に旨味の詰まった油ギッシュな餅マンにかぶりつく幸せを噛みしめ、宏美さんとおしゃべりしながらたそがれた。

「祐希ちゃんはお兄さんがいるんだっけ。連絡取ってる?」

「いや、SNSの家族グループで繋がってはいますけど、そのグループ自体ほとんど使われてないので……うち、冷めてるんですよ」

「それじゃフランス家族の濃厚さに火傷するわな。でもね、お兄さんとは仲良くしといたほうがいいよ」

いつも跳ねるように話す宏美さんが、不意にトーンダウンした。

「今はまだ大丈夫だろうけど、そのうち親が年取って介護の問題とか起きるでしょ。そうすると外国暮らしの兄弟姉妹は疎まれるのよ。『何もしないくせに、時々帰ってきたときだけ親にイイ顔する』って……私も妹と険悪になっちゃって。昔は仲良し姉妹だったんだけどな」

 遠くを見つめる横顔に、無力感が漂っている。

「……宏美さんのお母さん、転んだ怪我はもういいんですか?」

「いいらしいわ。ヘルパーさんの回数増やして、一人でがんばってるみたい。本当は施設に入ってもらった方が安心なんだけど、妹は私が母の話をすると怒るし、母と直接やり取りするのも嫌がるの。傍にいられないから物理的に負担かけちゃうのは申し訳ないけど、私だってできることはなんだってしたいのに」

「遠いですよね、日本」

「ほんと、遠いのよね、日本」

知っていたはずなのに、コロナで改めて突き付けられた覆しようのない事実だった。

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「うちは今のところ親は元気なんですけど、祖母が心配で……」

私もぼんやり景色を眺めながら、不安が口をついて出ていた。きっと宏美さんと同じく、遠い目をしているだろう。

先日コネコの写真を送った際、

<私は大丈夫です。祐希もそちらのご家族と仲良く元気でやりなさい。>

と返事があったきり、祖母からの連絡がまた途絶えていたのだった。

「会いに帰国したいけど、実家には帰ってくるなって言われてて。自主隔離二週間をホテルですごすとなると経済的にも厳しすぎるし」

「コロナがこの状況だと、周囲の目も厳しそうだしね」

「それなんです。たぶん親が一番心配してるのは感染じゃなくて、ご近所さんに噂されること」

両親はそういうタイプだ。昔から人の目をなにより気にしている。近所では絶対に険悪なムードは見せず、未だに「感じの良いご夫婦」で通っているはずだ。お寒い芝居には虫唾が走る。

「兄は一人暮らしだけどワンルームだし、ハナから当てにしてません。友達にも迷惑かけられないし、とにかく一刻でも早く、普通に帰国できるようになることを祈るしかない」

自分に言い聞かすようにつぶやきながら、すぐにでも祖母の元へ飛んでいきたい焦燥感で胸がじりじりした。


パリの街角のリアル
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日曜日の朝、カンタンの母親からの電話で叩き起こされる。

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<新刊紹介>
『燃える息』

パリュスあや子 ¥1705(税込)

彼は私を、彼女は僕を、止められないーー

傾き続ける世界で、必死に立っている。
なにかに依存するのは、生きている証だ。
――中江有里(女優・作家)

依存しているのか、依存させられているのか。
彼、彼女らは、明日の私たちかもしれない。
――三宅香帆(書評家)

現代人の約七割が、依存症!? 
盗り続けてしまう人、刺激臭が癖になる人、運動せずにはいられない人、鏡をよく見る人、緊張すると掻いてしまう人、スマホを手放せない人ーー抜けられない、やめられない。
人間の衝動を描いた新感覚の六篇。小説現代長編新人賞受賞後第一作!


撮影・文/パリュスあや子


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