震災から11年。記憶を風化させないために私たちにできること_img0
2022年3月11日、宮城県石巻市の石巻南浜津波復興祈念公園で行われた追悼イベント。犠牲者を追悼する3700個の灯籠によって「3.11 追悼の文字が浮かび上がった。写真:UPI/アフロ

東日本大震災から11年を迎え、各地で記憶を伝える行事が行われています。災害の記憶は時間とともに薄れていきますから、こうした行事を行うことはとても大事なことです。一方で、各種活動を一部の人の善意だけに頼ってしまうと、やがて継続出来なくなるという事態に陥ることもあります。災害の記憶を長くとどめるためには、社会的な仕組みが必要です。

 

筆者は仙台市の出身で、震災で実家も被害を受けました。幸いにモノが破損しただけで済みましたが、知人の中には家を失った人もいます。実は宮城県は災害が多い地域で、東日本大震災の33年前の1978年にも巨大地震が襲っており、多くの命が失われました(宮城県沖地震)。

当時、筆者は小学生でしたが、あまりの揺れの大きさに、部屋の中を動くことすらできず、家は倒壊してしまうだろうと思いました。揺れが収まった時は、「まだ生きている」という曖昧な感覚しかなく、茫然自失だったことを覚えています。筆者の家は何とか大丈夫でしたが、宮城県沖地震では家屋の倒壊が相次ぎ、これをきっかけに建築物の新耐震基準が導入されました。

今、思い返してみると、1978年の地震と2011年の地震には、社会的な面で大きな違いがありました。

78年に地震が襲った時、筆者の父は仕事で、宮城県の東松島市付近を走行中の電車に乗っていました(東松島市は2011年の地震による津波で1000人以上の方がなくなったエリアです)。電車は緊急停止して、皆が一安心したのも束の間、誰かが「津波」と叫び、多くの人が我に返ったそうです。電車の乗客は線路に飛び降りると、近くの小高い丘を目指して、必死に走りました。

78年の地震ではたまたま津波は来なかったのですが、父の話から、大地震が来ると巨大な津波がやってくるという感覚は多くの人に共有されていたことが分かります。結局、父たちは近くの丘に登って津波が来ないことを確認した後、(交通網がストップしていますから)徒歩でそれぞれに家に向かいました。父が帰宅したのは深夜になってからで、スーツは泥だらけでした。

当時、多くの人が津波のリスクを認識し、山に駆け登ったのは、1960年に発生したチリ地震津波の記憶が鮮明だったからだと思われます。チリ地震津波は、チリ近海で発生した観測史上最大級の地震で、それによって引き起こされた津波は日本まで到達しました。特に東北の三陸沿岸では巨大な津波となり、多くの死者を出しました。

ところが2011年の地震では、巨大地震の後に津波がやってくるかもしれないという感覚はかなり薄れていたようです。

 
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