「自分勝手に消費したくない」“推し”という言葉に苦手意識を持っている理由


小島慶子さん(以下、小島): あのエッセイを拝読して、ああ、この気持ちは口に出してもいいんだ、と思えたんです。実はずっと、「推し」という言葉に抵抗があって……。でも決してそんなことを言ってはいけないのだと思っていたんですよね。私がBTSに興味を持ったのは2019 年です。国連のイベントに出席したRMさんの演説を見て衝撃を受けて、自分なりに彼らのことを調べるようになりました。この連載でもいろんな識者の方々と対談する機会をいただき、やはり自分は“沼落ち”しているのかなという自覚はあるんですよ。でも、なぜか“推し”という言葉にはどうしても馴染めないというか、抵抗を覚えてしまうんですよね。

ハン・トンヒョンさん(以下、ハン):なるほど。でも今の時代、推しという言葉はもう一般用語で、それを使わないと会話が成り立たないこともあるのではないでしょうか?

写真:アフロ

小島:そうなんです。挨拶代わりに「あなたの推しは誰?」と聞かれることが多いのですが、RMさんのアート好きなところが好きではあるものの、どうも「RM“推し”」という言い方はしたくなくて…… だから「RMさんが好き!てかBTS現象そのものが好き」などと答えています。他の人が使うのはなんとも思わないのですが、自分が使うとなると、推しという言葉には、どうしても対象の所有者としての意識を感じてしまうんです。

ハン:“沼落ち”は受動的というか自己完結している印象ですが、“推し”は、対象をリコメンドして他者を巻き込む行為って印象があるのかもしれません。つまりリコメンドって、いったい何の資格があって? その対象を所有でもしているのか? という……。小島さんはそこに違和感を覚えるということなんですね。

 

小島: うーん、そうですねえ。率直にいうと、私のこの違和感は、「推し」という言葉に最初に出会ったときの文脈が原因だと思います。秋元康さんが生み出したアイドル消費ビジネスに抵抗があるんです。ファンはアイドルを純粋に応援していると言いつつ、少女たちの命運を握る支配欲を満たすことができる。少女たちはファンの支持を得るために心身ともに追い詰められ、しかしあくまでも自分が望んだことだと信じこむ。そしてファンが注ぎ込む巨額のお金は、ビジネスの仕掛け人の懐に入る。構造的には、江戸時代の遊郭が作った遊女の番付システム「吉原細見」と同じです。

ブームの当時、AKBファンを自称する大人の男性たちが「推し」の人柄や動向を政治談義のように語っている姿に、強い違和感を覚えました。あのシステムは色々なものの代替行為にもなっていたと思うんです。市民として政治にコミットして選挙権を行使しても何の効力感も得られないけれど、お金でアイドルの投票権を買えば応援という名のもとに少女を間接支配できるのですから、自分が何か力を持つ存在であると実感できますよね。皮肉な見方をすれば、男性たちの鬱屈したエネルギーの向かう先を政治から逸らすのに都合のいい巨大ビジネスだったから、権力を持つ人たちにも好都合だったのでしょう。もちろん昨今の推し文化はもっと幅広い意味を持つものですが、私は「推し」という言葉に対して最初に抱いてしまったこのネガティブな印象がなかなか払拭できなくて。

ハン:自分の好きなグループやメンバーの魅力を周囲に“布教”する人は大昔からいたと思いますが、確かに“推し”という言葉はAKB48が台頭した頃から広まっていったかと。それこそタニマチのような感覚で、自分がお金を使って貢いだ“推しメン”の所有者であるかのような感覚を持つ言葉かもしれません。そこに小島さんは違和感を覚えたと。

小島:はい。だからこそ、BTSに触発されて自発的に社会貢献に取り組むようなARMYというファンダムは、信頼できたんです。秋元氏とのコラボ計画にも抗議したそうですしね。