優生保護法はなくなっても、優生思想は残っている


──五十嵐さんのご著書を読んで、優生保護法について改めて考えるようになりました。もし五十嵐さんのご両親が優生保護法によって強制不妊手術をされていたら、五十嵐さんはこの世に存在しなかったかもしれない。優生保護法はいまある命を奪ったかもしれないし、奪われた命もある。
私の父親は私が生まれた後に精神障害を負ったのですが、父親が精神障害者という事実だけを見て、私の体験談を読んだ人から「なんで障害があるのに子供を産んだんだ」「障害者が子供を産んだせいであなたの苦しみがあるんじゃないか」と言われることがあります。

 

五十嵐:それってヒオカさんの存在を否定しているようなものですよね。

──生まれてこなかった方がよかったということでしょうか? と思いました。障害者が子供を産むなというのって、優生保護法となんら変わりないと思うんです。障害者とは言わなくても、健常者でお金があって優秀な人ほど子供を産むべき、みたいな論調はよく見かけます。
法律としてはなくなったけど、優生思想は残っている、根付いていると感じるんです。
最近の著名人の発言で遠回しに高齢者はお荷物という意見をよく目にするようになりました。高齢者というのは現役ではない、働けない、社会全体で支えられている存在だ、と。
それって結局高齢者だけでなく、働くことが難しい人など、生産性がないなんて言われてしまう人たちも否定することに繋がる。生産性で命の価値づけが行われていくことにすごく恐怖を感じます。

五十嵐:理想論と言われるかも知れないけど、何もできない人でも自然に生きていける社会がいいなと思うんです。頑張れない人は頑張らなくていい。そして、みんないつ働けなくなったり、障害者になったりするか分からないという視点も必要ですよね。

 


インタビュー前編
「可哀そうで悲惨な話ばかり求められる」違和感。障害者の子供には困難も幸せも存在する>>


写真/水野昭子
イラスト/Shutterstock
取材・文/ヒオカ
構成/坂口彩