平穏な日常に潜んでいる、ちょっとだけ「怖い話」。
そっと耳を傾けてみましょう……。
第34話 娘がいない
「え!? 里恵! 里恵! 嘘でしょ?」
ロンドン郊外行きの列車に乗ってから振り返り、私は思わず声を上げた。
私と同じように、信じられないという顔で目を丸くしている娘の里恵。その私たちを、なんと車両ドアが隔てている。ホームを歩いていたとき、出発のベルは鳴っていなかった。音もなく、すうっと閉まった、そんな感じだった。
「ちょっと、すみません、誰か、誰か開けてください! 娘がホームに!」
思わず日本語で叫ぶが、周囲の乗客もどうすることもできない。ホームにいる里恵は動き始めた列車を追って走るが、距離がひらいていく。
私は慌ててドアに顔を押し付けて、里恵に向かって口を大きく動かした。
――そこで待ってて! 次の駅で降りて戻ってくるから!
必死に、動かないで、そこにいてとジェスチャーをして、里恵が頷いたのは辛うじて見えた。
列車はぐんぐん加速していく。私は「落ち着いて、落ち着いて」と自分に言い聞かせる。次の駅で降りて、目の前の電車に乗って引き返せば里恵がいる駅に戻れるはずだ。
そうは思うものの、ろくに英語もしゃべれないうえにまだ12歳の里恵が今、どんなに心細いかと思うと、いてもたってもいられない。
昔駐在で住んでいたことのあるロンドンに、夫と娘の里恵と3人で旅行に来て4日目。今日は夫が昔の同僚と会うことになっていて、別行動していた。
――ああ、携帯電話を持ってくれば良かった……!
国際データローミングやらSIMフリーやら、なにか夫が言っていたけれど、よくわからなくて手続きをしないまま、今朝仕事に行く彼をホテルで見送った。そのあと里恵と相談して観光しようという話になり……つまり今、頼みの綱の彼に連絡を取る手段がない。
こんな時に限って、妙に次の駅までが長い。
心臓が壊れそうなほどどきどきしていた。ドアがあいたら飛び出す準備をして、肩にかけたショルダーバッグの紐をぎゅうっと握りしめる。
夏の夜、怖いシーンを覗いてみましょう…。
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