ゾンビのように生き残る「標準」のイメージ


では、なぜこうした感覚が共有されてしまうのか。

日本におけるおじさんをめぐる議論の問題は、多くの人が高度成長期の残像を無意識のうちに実態と錯覚し、いまだに正社員で既婚・子持ちの中年男性を「標準」として認識してしまっている点にある。

「もうそんな時代じゃない」「そんなふうに思っている人はいない」と笑う人もいるかもしれない。しかし、おじさんが「社会の害悪の元」として叩かれるという状況は、社会の共有イメージとして、「標準」がゾンビのように生き残っていることを示している

 

独身や非正規の中年男性がどれだけ増えたとしても、それによって自動的にイメージとしてのおじさんが更新されるわけではない。「見慣れた」光景になっても、そうしたおじさんたちが「例外」と見なされているかぎりにおいて、「標準」は影響を受けないのである。 

男女の不平等を再生産し、その上、現実とも齟齬をきたしているにもかかわらず、男性稼ぎ手モデルを前提とする性別役割分業に基づいた社会システムが維持されていることに苛立つのは当然だろう。

しかし、その原因をおじさんに求め、安易に叩くことは、一時的なガス抜きにしかならず、さらに悪いことに、イメージと実態を混同している以上、意図せざる結果として、固定観念の維持に貢献しているのである。

物語には人を惹きつけ、日常的な不満を解消する力がある。注意する必要があるのは、若者叩きがそうであったように、物語はあくまでフィクションであり、事実をそぎ落とすことによって成立しているということである。現実の世界ではそう簡単に伏線は回収されたりはしないし、そもそも原因と結果の関係を特定するには丁寧な分析が必要である。

実際の観察に基づかず、単に自分たちにとって目障りなあらゆる事象を、おじさんというカテゴリーに押し込め、現実を批判しているかのような気になっている議論は、現代の日本が男性中心主義の社会であるからこそ注意深く退ける必要がある。
  
考えなければならないのは、いかにしてこの強力なおじさんイメージが広まり、社会に対してどのような影響を与えてきたのかである。簡単に歴史を振り返ってみよう。

おじさんイメージはこうして形作られた


大卒が学士様と崇められていた時代、サラリーマンは社会的なエリートであった。それは単に男性にとって「理想」であっただけではない。1950代後半には、女性から「理想」の結婚相手として、開業医よりも圧倒的に人気があったという。

1950年代のサラリーマン(photo by gettyimages)

まだ、農業や個人商店などで人々が生活の糧を得ていた時代に、経済的に安定していたサラリーマンは、「いい学校→いい会社→いい家庭→いい人生」という「理想」のライフコースのイメージを広める役割を果たした。

高度成長期を通じて、サラリーマンは多くの男性とその家族にとって遥か彼方の「理想」から、たどり着けるかもしれない「夢」へと変化する。

しばしば右肩上がりと表現されるこの時代だが、実際には、好況と不況の繰り返しであった。重要なのは、全体的には高い経済成長率を保っていたこと、そして、何より不況の後には必ず好況がやってくると信じられたことである。