2020年は“白衣の天使”ナイチンゲールの生誕200年。コロナ禍で「医療」「看護」のありがたみを痛感している今だからこそしりたい、ナイチンゲールの偉業とは?
『赤毛のアン』の翻訳で知られる村岡花子の著書『ナイチンゲール 「看護」はここから始まった』をもとに紹介します。

 

 

生誕200年! コロナ禍で実感するナイチンゲールの偉業


ナイチンゲールのイメージといえば「白衣の天使」ですが、その人生をひもとくと、まるで正義の剣をもった戦士のような人だったことに驚かされます。

2020年はフローレス・ナイチンゲール(1820年5月12日〜1910年8月13日)の生誕200年。この記事では、「近代看護」の基礎をつくったナイチンゲールの人生をお伝えします。
 

“近代看護教育の母”ナイチンゲールは起業家で統計学者!


ナイチンゲールはイギリスの上流階級の出身ですが、自立して働き、看護の道へと進んだ女性です。
広く学問をおさめ、不屈の精神で困難に挑み、社会起業家、統計学者、そして近代看護教育の母として、医療の発展に大きく貢献しました。
彼女の人生は、偉人として、また一人の女性としても、今を生きる私たちに大切なことを教えてくれます。
 

お嬢様は天才少女!?


ナイチンゲールは、18世紀のイギリス生まれ。父親は大地主、母親は国会議員の娘という超リッチ家庭で、15も寝室がある大きな屋敷に暮らしていました。
教育熱心な父により、哲学・政治学・宗教学、さらに当時の女性には珍しく数学までも学んだナイチンゲール。しかも、ギリシャ語・ラテン語を読み、フランス語・ドイツ語・イタリア語にいたっては読み書きだけでなく、会話も自由自在という天才少女だったのです。
 

社交界のスターで良いか? やりがいのある仕事を取るか?


ナイチンゲールの母は、娘をレディとして社交界にデビューさせ、有力な貴族や大富豪と結婚させたいと考えていました。実際、知的で華やかなナイチンゲールは社交界の花形として優雅な日々を送っていましたが、一方で、そんな人生に疑問を感じていました。
子どものころから、貧困や病気で苦しむ人々を見過ごせなかったナイチンゲールは、自分の能力を社会に役立てたい、「看護」の道へ進みたいと願い続けていたからです。

「わたしの心は、人間の苦しみ、なやみという考えでいっぱいになっている。それが、わたしを前からも、後ろからもせめたてる。わたしの見るかぎりの人たちは、心配と、まずしさと、病気に食いころされている。」
 フローレンスは、いまこそ自分の進むべき道が、ぜいたくな楽しみだけをもとめている人たちのなかではなく、不幸な人たちのなかにあることを、はっきりとさとったのです。

――『ナイチンゲール 「看護」はここから始まった』より

 


30歳を過ぎて悲願の看護の世界へ!


ナイチンゲールが「看護」の道へ進むには、大きな問題がありました。
この時代の「病院」はひどく不衛生なうえに、けんかや飲酒、窃盗も横行する危険なところでした。
こういった事情から、「看護師」という仕事は切実な必要性にもかかわらず理不尽な偏見をうけており、上流階級のナイチンゲールが病院で働くなど、当時の常識ではありえない事だったのです。

ナイチンゲールの願いは、当然のように家族から大反対をうけます。しかし彼女はあきらめません。縁談を断り、助けになってくれる人脈をつくり、チャンスがくるのを待ち続けました。
最終的に彼女が看護の道へ進むため、ドイツの病院付き学園施設「カイザースヴェルト学園」に旅立ったのは、1851年、30歳を超えてからのこと。その忍耐と信念は並々ならぬものと言えるでしょう。
 

「ナースコール」の起源はナイチンゲール!


1853年にロンドンの病院で看護の改革をまかされたナイチンゲールは、画期的なシステムをつくりました。
病院の各階にパイプを通し、熱いお湯を送ること。
患者の食事を運ぶための、巻き上げリフト機を設置すること。
患者と看護師控え室をつなぐベルを取り付けること。
いまやどこの病院でもあたりまえにある「ナースコール」は、ナイチンゲールが考案したベルがもとになっているのです。
 

血と泥の中で戦った「ランプの貴婦人(レディー)」


1854年にクリミア戦争が勃発。ナイチンゲールは看護師団をひきいて戦地に向かいます。しかし、その仕事は困難を極めました。
軍医長官が、陸軍大臣と知り合いのナイチンゲールを警戒し、露骨に妨害、医局の幹部たちも、女性の従軍を快く思わず看護団を冷遇したのです。
そのうえ野戦病院では、物資も食料も足りず、傷病兵たちは血と泥の中で苦しみながら死んでいきます。そこは、まさに地獄のありさまでした。

しかし、不屈の人であるナイチンゲールはここでも改革に奔走します。
私財で物資を調達し、合理的かつ戦略的にたちまわってスタッフをまとめ、「ミス・ナイチンゲールはいつねむるのだろう」と噂されるほど、精力的に働き続けました。彼女が、毎夜ランプをかかげて患者を見回る姿はイギリス本国でも報道され、「ランプの貴婦人(レディー)」として注目を集めます。

ナイチンゲールは、患者のそばで身をかがめるとき、かならずランプを下におきました。
患者がまぶしがらないように、という思いやりからでした。
そして、ふたことみこと患者に話しかけ、うなずきながらほほえみかけるのでした。
ナイチンゲールの夜回りが、いつごろから始まったかはわかりませんが、傷病兵にとって、それは、どんなに大きななぐさめになったでしょう。なかには、ナイチンゲールの通る陰に、そっとキスして、やっと安心したように、ねむる者もいました。

――『ナイチンゲール 「看護」はここから始まった』より

 

大事なことは「ファクトデータ」で説得!


ナイチンゲールの活躍はヴィクトリア女王にまで届きました。
女王はナイチンゲールを応援し、ナイチンゲールは衛生環境の改善を女王に進言します。そしてクリミア戦争終結後、二人は更に親交を深めました。

また、イギリスにもどったナイチンゲールは、軍の衛生状態・病院管理について、統計分析を駆使して研究をまとめたことから、「統計学の先駆者」とされています。
幼いころから数学が得意だった彼女は、誰もがわかりやすいように、各種データを扇状の円グラフであらわすことを考案、女性初の王立統計学会のメンバーに選出されました。
 

理解してくれる味方とともに


ナイチンゲールは『病院覚書』『看護覚書』を出版し、一般市民にも広く保健衛生の大切さを知らせます。そして、看護学校を設立し、看護を担う人々を教育する礎をつくりました。
ナイチンゲールが「近代看護」を確立するまでの道のりは困難にみちたものでしたが、彼女は不屈の精神でやりとげました。またそこには、ヴィクトリア女王や陸軍大臣のシドニー・ハーバートをはじめ、彼女の情熱を理解し支援してくれる人々の助けもありました。

裕福で才能と人脈に恵まれながらも、楽な方に流されず、社会と戦い、弱い人々の味方でありつづけたナイチンゲール。
強く正しい信念で、「看護」の基礎をつくりあげた偉人の功績は、いまなお私たちに大きな希望をもたらしてくれます。


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コロナ禍で実感するナイチンゲールの偉業と壮絶な人生とは?_img0
 

『ナイチンゲール 「看護」はここから始まった』

村岡 花子/文 丹地 陽子/絵

フローレンス・ナイチンゲールは、近代看護の基礎を作ったイギリス人の女性。クリミア戦争では訓練された看護師チームを率い、現地のイギリス軍の病院で活動しました。 傷ついた兵士たちを看護するほか、病院の施設や衛生状況を改善するなど、看護の基本を作り、看護学校での看護師の養成や、職業としての地位向上にも尽力しました。

構成/北澤智子