渋谷、新宿、下北沢……都内某所のカフェ。10日に1度のペースで密会する男女。
女性の方はかなり若く、おそらく女子大生。男性の方は白髪混じりの中年で、40代後半といったところ。
どう見ても父娘という雰囲気ではないし、二人ともカジュアルな装いで会社の上司と部下という感じでもない……親子ほど歳の離れた二人の関係は、一体?
巷で問題視されるパパ活のように単純な話ではなく、この女子大生には、もっと深い「目的」があるようです。
名前:真木山静
年齢:20歳程度
職業:女子大生
「おじさん」に会い続ける女子大生の本音
「なんで私がこんなおじさんと……って、思ってますよ。正直」
カフェから出てきた真木山静は、駅に続く道を歩きながら淡々と語った。
彼女はつい先ほどまで、田中という男性と一緒にいた。失礼ながら白髪まじりの冴えないおじさんなのだが、実は有名な文学賞をとったこともある作家らしい。
「作家先生だかなんだか知らないけど、私からしたらとにかく鬱陶しいです。まず、令和の時代にスマホ持ってないって意味不明。連絡とるの、超面倒だったし」
仕方がないから、なんとネットで見つけたわずかな情報を頼りに、新宿のデパートで田中が現れるのを待ち続けたのだという。
「会えたのは奇跡的でしたね。運命、なのかな。もしかしたら……」
静はふと意味深なことを言い、一瞬、何かを考えるような表情を見せた。しかしすぐに首をふって、再びおじさん・田中を攻撃し始める。
「なんでおじさんって、ああいう風なんですかね?常に上からモノを言うし、ちょっと話を遮っただけであからさまにムスッとしたり。おじさんの話がまわりくどいから、まとめてあげただけなのに」
田中とのやりとりを思い出すと、腹が立って仕方がないらしい。
「若い女を下に見てるんですよ、根本的に。私が男だったら絶対に態度が違ったはず……あ、でも、男ならこんなに頻繁に会ってもらえてないかもね」
ガーっと早口でまくし立てた後、彼女は「あはは」と声だけで笑った。
静はここ最近、10日に1度のペースで田中に会っている。そして、会うたびこうしてイライラと不快感を募らせている。
しかしそれでも静には、田中とどうしても会わなければならない理由があるのだった。
「周りからはパパ活とかって思われてるのかも。まあでも、完全に外れってわけでもないかな。……だって田中さんは、私の父親だったかもしれない人だから」
敵か、味方か。「母親の秘密」を知る男
「私が初めて田中さんの存在を知ったのは、母が『ああなる』直前でした」
静は東京の私立大学に通っているが、母親は地元・下関でひとり暮らしをしている。父親とはずいぶん昔に離婚しており、シングルマザーとして静を育ててくれたという。
「その母が、急に何を思ったのか、高校時代の話をし始めて……」
しかし記憶が曖昧なのか、わざとなのか。母親の話は断片的で、何も知らない静が全体像を理解するにはまるで情報が足りなかった。
下関の高校。非常階段。安全と幸せ。三島由紀夫と川端康成。そして、田中――。
わかったのは、これらの、なんの脈略もないキーワードだけ。
まったくわけがわからない。静は曖昧が嫌いだ。だからもちろん詳しく聞き出そうとした。
「でもダメでした。もう話したくない、話せないことだからって途中で切り上げられちゃって……自分から言い出したくせになんなんだって感じですけど」
結局、そのあと静が何を言っても、母はそれ以上を話してくれなかった。
「諦めないでちゃんと追及すべきでした。だって、明らかに様子が変だったし……」
「後悔しても仕方がないけど、後悔してる」と付け加え、静は弱々しく笑ってみせた。
気がつくと、渋谷駅がもう目の前だった。
「私は真実を知りたい。高校時代、母に何があったのか。田中さんが敵なのか味方なのか。とにかく会って話を聞かなくちゃ。あのおじさんが母の秘密を知っていることは、確かだから」
宣言し終えると、静は溶け込むようにして雑踏へと消えて行った。
▼横にスワイプしてください▼
『完全犯罪の恋』
田中慎弥 1600円(本体)
「私の顔、見覚えありませんか」
突然現れたのは、初めて恋仲になった女性の娘だった。
芥川賞を受賞し上京したものの、変わらず華やかさのない生活を送る四十男である「田中」。編集者と待ち合わせていた新宿で、女子大生とおぼしき若い女性から声を掛けられる。「教えてください。どうして母と別れたんですか」
下関の高校で、自分ほど読書をする人間はいないと思っていた。その自意識をあっさり打ち破った才女・真木山緑に、田中は恋をした。ドストエフスキー、川端康成、三島由紀夫……。本の話を重ねながら進んでいく関係に夢中になった田中だったが……。
芥川賞受賞後ますます飛躍する田中慎弥が、過去と現在、下関と東京を往還しながら描く、初の恋愛小説。
紹介文/安本由佳
Comment