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渡辺ミキ社長が語る芸能マネジメントの面白み「二人三脚の紐が解ける時が一番つらい」

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青木:以前、社長のインタビュー記事で「急にお嬢様が登場して、多くの社員さんが離れていった」という内容を記憶しているのですが。

渡辺:多くの人が辞めていったのは事実だけれど、私の登場よりもむしろ、若くて才能もあり、日本を変えていこうという情熱を持った“渡辺晋という巨木”が倒れてしまったからなのです。両親の作った渡辺プロダクションは、戦後の芸能界のありようを作った草分け的存在でしたし、渡辺晋は「ザ・ヒットパレード」や「シャボン玉ホリデー」をはじめ、時代の波とたくさんの番組やヒットの仕掛けを一から作り上げていった人でしたから。当然、うちの会社のマネージャーも優秀な人材が揃っていたけれど、父が亡くなったことで引き抜きに拍車がかかったということもありますね。

 

 

青木:渡辺晋さんは、まさにテレビ界、エンタメ界の礎を築かれた存在ですよね。亡くなられたのも59歳とまだお若かったですし。社長はそんな中、どうやって組織に馴染んでいったんですか?

 

渡辺:馴染む以前に、私は“上空からヘリコプターで降りてきたお嬢様”状態だったので、役員の肩書きがあるとはいえ、誰も仕事をくれませんでしたね。自分から積極的に提案をしてみても、その場がしらけてしまって。誰の担当もさせてもらえませんでした。だから、自分で仕事を作っていったんです。

青木:いばらの道ですね。

渡辺:いろんなコンテストに行って、自分でスカウトしてね。吉田栄作、西島秀俊も、そんな時に出会ったんです。会社に居場所がなかったので、ある程度早く形にしなければと思って、自分で代理店を回って、CM契約をたくさんとってきたりね。

青木:今以上に、本当にタレントと二人三脚の状態ですね。仕事にもまだ慣れていないでしょうし、想像だけでもしんどいですね。

渡辺:スタートラインとしてはしんどかったけど、逆にああいうスタートラインでなければ、辞めていたかもしれません。特に、渡辺晋がバカにされるのが本当に嫌だった。父がやってきたことを“なかったことにしようとするもの”に対しては、徹底的に戦いました。だから、当時の私は相当ピリピリしていたんです。本当は気が強くないけれど、頑張って“気を強くしていた”の。だから、当時を知る方には「だいぶ丸くなりましたね」って言われます(笑)。