時代の潮目を迎えた今、自分ごととして考えたい社会問題について小島慶子さんが取り上げます。

 

今から10年前のことです。あるバラエティ番組のひな壇で、私の後ろの段に、若い女性芸人さんが座っていました。両脇の先輩格の男性芸人たちが「こいつ、風呂入らないんですよ。太ってて汗かきだから脇の下とかすげえくっさいの」と、揶揄います。振り向くと、遠慮がちに「そうなんですよ」という仕草をしている女性。すぐ近くに座っているけど清潔だし、もちろん全然臭くありません。周りはゲラゲラ笑っています。



 

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彼女はなんでこんなことを言われなくちゃならないんだろう、これっていわゆる「新人いじり」ってやつ?と腹が立つと同時に悲しくなり、いま自分にはテレビ的にどんなリアクションが求められているのだろうと戸惑いました。
きっと、ええー!!と悲鳴をあげるのが正解なんだろうけど、それはしたくない。まだフリーになったばかりでそうした場面に慣れておらず、固まってしまいました。はっきりとNOの態度を示さなかったことで、結局いじりに加担したことになったんじゃないか、固まった表情を彼女がどう受け取っただろうかと、その後彼女をテレビで見るたびに、あの瞬間がフラッシュバックしました。
彼女は、ただ先輩にされるがままにするほかなかったでしょう。本当はどんな気持ちだったんだろう。私も彼女も、周囲の囃し立てる声の中で「これに適応しなくちゃ、これが普通なんだ」って自分に言い聞かせていたんだよね。


テレビカメラの前で、“いじり”を盛り上げろ、場の空気を壊すなと暗黙のうちに求められる。あれは休み時間に弱い子をからかって追い詰める教室の空気そっくりでした。いじりを実生活でやったら、いじめです。
最近は容姿などの“いじり”は人の尊厳を傷つける行為だからやめようという風潮になっていますが、それでもまだ「いやいや本人はおいしいと思っているし、気にしていない。出演者同士には信頼関係があるのだから、いじめじゃない」と強弁する声が上がります。30年来変わらない“テレビの常識”です。

見た目をからかわれても、かまってくれてありがとうと言って面白くリアクションするのが「才能」。人と違っていることを笑うのは「愛情表現」。今回のオリンピック開会式の“Olympig”演出案も、まさにそういう感覚でしょう。

 
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