聞きたくない知らせ


「坂口彬さんのお宅でしょうか?」

めったに鳴らない家の電話。普段なら留守電を聞いたかもしれないが、虫の知らせというのか、考えるより前に受話器を取った。しかし相手の緊迫感で、弘美は何かを聞くまえに電話に出たことを後悔しそうになった。

その日、弘美は当時就いていた図書館司書の仕事を終え、遅くなるという彬の好きな水炊きを作ってマンションで待っていた。

運よく弘美が出身大学の図書館で働けることになったので、賃貸マンションはそのすぐ近くで見つけた。彬は大手メーカーに就職し、勤務地は丸の内だったので通勤は30分ほど。

でもその日は、もうすぐ会社を出るとメールがあってから、すでに1時間半も経っていた。

「最愛の夫が、交通事故に...」妻を襲った悲劇。死別を受け入れられない妻の苦悩と決断_img0
 

「信号無視の車が直進してきて、雨で視界が悪かったのか、坂口さんも気がつくのが遅れたようです。残念ですが……」

病院で医者が苦しそうにそう告げたとき、弘美は混乱のあまり医者の腕を掴んでしまった。

交通事故と聞いて、「後遺症が残ったらどうしよう」と震えるような心地で病院に駆けつけたのに、なぜか最悪の事態は想定していなかった。

そんな話は聞きたくない。受け入れられない。家では水炊きが煮えて、お風呂だって沸いている。

取り乱し、先生に「主人をなんとか助けてください、なんとか、どうか」と縋る弘美は処置室で横にされ、看護師が「大丈夫、落ち着いて、大丈夫」と手を握ってくれた。

何も大丈夫なんかじゃない。

口だけの気休めなんていらない。今から何か、蘇生する方法を試してほしい。

弘美は結局鎮静剤を打たれるまでベッドで泣きながら懇願し続けた。

日頃大学で、弘美が穏やかでおとなしいと言われるのは、彬が18の頃からそばにいてくれたからだ。

一分の隙もなく、弘美の孤独を埋めてくれた彬。この先離れることなど考えられなかったから早くに結婚した。たった2年で、しかもあまりにも突然、いなくなるなんて。

それから17年が経った。

弘美が彬の喪失を、受け入れたのかと問われればそれは違う。くるっと包んで、普段はそれを切り離す術を覚えたのだ。

彬を失い、暗黒と混乱の1年を経て、弘美はマンションを引き払って小さなアパートに移った。仕事も辞め、知人のつてで小さな旅行関連出版社に契約社員で入った。

以前の職場は大学図書館だったから、彬との思い出がありすぎた。新しい職場は考えられないほど忙しいと聞いて、それも好都合だった。

とにかく彬の話題と気配がない環境に移動した。それを薄情と言われればそうなのかもしれない。しかし弘美の内側は彬で満タンだったから、外側までも彬である必要は全くなかった。

そうして17年かけて、弘美はようやく姉御肌と言われるまでになり、平穏を取り戻した。


いつのまにか昔を思い出している。哲也に会ったからだろう。弘美は頭をひとつ振ると、シャワーを浴びてからキッチンに行き、コーヒーを丁寧に淹れた。

足元の箱には、哲也からもらったとうもろこしが並んでいる。

初めて哲也の故郷から新鮮なとうもろこしが送られてきたのは、弘美と彬が結婚したときだ。

息子の親友たちの結婚をきいた哲也の母親が、お祝いに羊蹄メロンととうもろこしを新居にたっぷり送ってくれたのが始まり。

その美味しさに感激した二人を見た哲也が、翌年も送るように手配してくれた。翌年は新じゃがが届いた。

そしてその次は……。

弘美がはっとして再び思考を閉じるのと、スマホから通知音が流れるのは同時だった。

― 今日は楽しかった、ありがとう。

哲也からのメッセージに、弘美はほっとして、こちらこそ、と返信した。

― 俺、ほんとは今日、聞きたいことがあった。弘美さ、もう誰かと付き合う気はないの? そこらへんのこと話したかったのに、勇気がでなかった。またいつもみたいに1年後、とかだとちょっと待てそうもないから、来週あたり話せないか?

弘美は、何かを考えるまえに、無表情で間髪入れずに指を動かした。

― いやだ。余計なお世話。

指が震えているのは、怒りか、それとも……。弘美はスマホを放り投げて、逃げるように寝室に向かった。

 
次週予告:9話/弘美の話【後編】痛みを抱えながらも平穏な毎日を壊したくない弘美に、哲也は語り始めた意外な言葉とは?
構成/山本理沙

 

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