天皇陛下と雅子さまに位を譲り、美智子さまとともに穏やかな時を過ごされている上皇さま。

国内のお出ましや被災地へのお見舞い、戦地への祈りの旅の先々で、やさしく人々を見守り励ましてこられました。災害のあった避難所でひざをついて一人ひとりに声をかける姿に、多くの国民は胸打たれたのです。その優しさや思いやりは、どのように育まれたのでしょう。

その秘密は、幼児期の教育にもありそうです。

史実に基づき、一部創作を加えた伝記小説『倉橋惣三物語 上皇さまの教育係』(2021年11月25日刊)には、上皇さまが幼少のころの心あたたまるエピソードが見られます。

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教育係を務めた倉橋惣三(くらはし・そうぞう)の教えは、今の子育てにも役立つものです。そんなエピソードをご紹介しましょう。

 


子供と一緒に自分も愉快に楽しく遊べるのは偉い人


上皇さまは3歳3カ月で両親から離されました。将来、天皇陛下になる方として、厳格に育てられるためです。とはいえ、小さな子供ですから、遊び相手が必要です。お住まいの東宮仮御所には、近くの幼稚園の先生や子供たちが招かれ、一緒に砂遊びやブランコ、滑り台や三輪車で遊ばれていました。

上皇さまが4歳のころ、遊び相手として倉橋惣三が加わりました。当時、惣三は東京女子高等師範学校(のちのお茶の水女子大学)附属幼稚園主事でした。

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写真/お茶の水女子大学所蔵

幼い上皇さまと惣三はどんな遊びをされたのか、本の中をちょっぴり覗いてみましょう。
ある日、4歳の上皇さまと惣三は、毬投げをすることになりました。

「では、参りますよ。えいっ」
惣三が大きく振りかぶって精一杯投げた毬は、自分の足元に打ち付けられ、大きく跳ね上がったかと思うと、惣三の頭上を背面方向に飛んでいった。
「倉橋、どっちに投げているの」
「いやあ、申し訳ありません。今度こそ……。よっ」
毬の行方を追う。まっすぐ投げたつもりが、大きく左へとそれていく。
「ああ……あ」
惣三は、自らの失投の後始末に奔走する。
「倉橋、もう、こちらから投げます」
「そうですね、その方がよろしいようです」
拾ってきた毬を手渡しながら、惣三は苦笑した。……(略)……
子供のころから何をやってもだめだった。それでからかわれたりもした。なぜ自分はこんなにもできないのかと、嘆いたこともあった。唯一、自分が他の人よりも優れていると言えること――。それは、子供が好きだということだけ。

(『倉橋惣三物語 上皇の教育係』講談社より抜粋)

 

子供は自ら育つ


惣三の教育の根底にあるのは「子供は自ら育つ」という信念でした。子供の中にある可能性を信じ、自主性を重んじる教育です。型にはめることはしないで、大人のほうから子供の中に入っていく教育を実践していたのです。

惣三は、東京帝国大学の学生だったころから近所の幼稚園に通っては、子供たちと遊んでいました。そして当時は珍しかった幼児教育を研究対象として取り組むようになり、のちに“日本のフレーベル”“近代幼児教育の父”などと呼ばれ、幼児教育の分野で数々の改革を行っていくことになります。

やがて惣三の活動は広く世に知られるようになり、昭和3年から合わせて6年間にわたって昭和天皇と皇后良子(ながこ)さまに御進講を務め、その後、幼い上皇さまの教育係を2年間務めました。

時間を作っては子供たちのもとに出かける惣三。彼は、子供たちと遊ぶことが楽しくて仕方がありませんでした。

「大事なのは、『子供の心になる』ということです。……子供を楽しませるのは良いことです。子供と共に楽しむのはさらに良い。しかも、子供と一緒に自分も愉快に楽しく遊ぶことは最も大切なことです。私はそう思いますよ」
のちに惣三は、こう語っています。
 

さんさんと照らし、励ましてくれた「小さな太陽たち」


幼い上皇さまとの過ごした日々には、こんな思い出もありました。

ある時、那須御用邸にいた幼い上皇さまと惣三は散歩に出かけました。歩いていくと、山を少し奥に入ったところに、細い丸木橋があったのです。下には浅い渓流が流れています。ものを渡るのに憶病な惣三は、少しおじけづきました。

ところが、幼い上皇さまは平気でどんどん渡って向こう岸に着いてしまいました。そして、振り向いて、カメのような歩みの惣三が渡り切るのを、何も言わずにお待ちになっているのです。

いつもさり気ないお心遣いをされる――。小さいころから両親から離れて暮らし、その悲しみはどれほどでしょう。しかし、だからこそ人の悲しみや苦しみに共感することができるのではないか。きっと、国民に寄り添って歩まれる慈しみ深い大人になられることだろう。
そう思うと、惣三の胸は熱くなるのでした。

幼児教育とは、人間の根っこを育てること。しっかりした根っこが育っているからこそ、きれいな花が咲くのだ、と惣三は考えていました。

惣三に幼児教育の大切さを教えてくれたのは、ほかならぬ子供たちだったのです。惣三は、子供たちを「小さな太陽」と呼んでいました。

「僕が子供たちに何かしたということは一切ない。いつもいつも燦燦(さんさん)と照らされ、励まされてきたのは、僕のほうだった。小さな太陽たちに……」

惣三は、いつもこう言っていたといいます。惣三の生涯は、つねに子供たちに寄り添い、心に共感し続けた長い道のりでした。
 

倉橋惣三(くらはし・そうぞう)
明治15年生まれ。昭和30年没。日本幼児教育の先駆けとなった東京女子高等師範学校附属幼稚園(現・お茶の水女子大学附属幼稚園)で主事を務める。『婦人と子ども』(後の『幼児と教育』フレーベル館)3代目編集責任者、『コドモノクニ』編集顧問を努め、昭和23年には、日本保育学会初代会長となる。

 


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『倉橋惣三物語 上皇さまの教育係

子供は自ら育つ――自発性を大切にし、子供たちの中に眠る可能性を信じた倉橋惣三の教育が、今の時代にこそ求められている。

“日本のフレーベル”、“近代幼児教育の父”と呼ばれる倉橋惣三は、大正期から昭和にかけて活躍した教育者。
昭和3年からは昭和天皇、皇后陛下へのご進講が始まり、上皇陛下が皇太子でいらした幼少期に、教育係を務めた人物である。

少年時代、運動が苦手で不器用なうえ、引っ込み思案だった惣三の心を開いてくれた、下町の子供たち。導いてくれた恩師や、夢を語り合った生涯の友。さまざまな出会いが、惣三という人間を作っていく。
学生時代から幼児教育に興味を持ち、やがて教育者となった惣三は、激動の時代にあっても、変わらず「子供の友達」であろうとした。
幼児教育の改革を次々行っていく一方で、息子との関係に悩む一人の親でもあった。遺された日記をはじめとする貴重な資料をもとに描く、感動の物語。


『倉橋惣三物語 上皇さまの教育係』著者 

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倉橋燿子(くらはし・ようこ)
広島県生まれ。上智大学文学部卒業。出版社勤務、フリー編集者、コピーライターを経て、作家デビュー。講談社X文庫『風を道しるべに……』等で大人気を博した。その後、児童読み物に重心を移す。主な作品に、『いちご』(全5巻)、『青い天使』(全9巻)、『生きているだけでいい!~馬が教えてくれたこと~』、『夜カフェ』シリーズ(以上、すべて青い鳥文庫/講談社)などがある。

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倉橋麻生(くらはし・まお)
東京都生まれ。慶應義塾大学文学部卒。上智大学博士前期課程修了。卒業後、宮内庁に勤務。事務官として皇室業務に携わる。倉橋燿子の長女であり、倉橋惣三のひ孫にあたる。


文/高木香織