時代の潮目を迎えた今、自分ごととして考えたい社会問題について小島慶子さんが取り上げます。

 

先日、人生で初めて乳房を褒められました。年に一度の乳がん検診では、毎度なけなしの皮と肉をマンモグラフィの端っこに挟み込み、干潟そっくりな肋骨の凸凹を超音波プローブでガタガタなぞって、乳腺に異常がないかを調べてもらっています。今回担当した医師は私と同じ苗字の親切な同世代の女性で、マンモの画像をじっくり眺め「とても理想的な乳腺ですね」と言いました。密集しすぎず、見やすい乳腺という意味らしい。それを聞いて思わず「私の胸、中身は理想的だったんですね!」と叫んでしまいました。なんだか大きな赦しを得たような、何かが成仏したような気持ちでした。ありがとう、コジマ先生。

 

30代の終わり頃、豊胸手術をしようかと考えたことがあります。胸に柔らかくて丸い膨らみが二つ付いているのはどんな感覚なのか、そういう体になるとどんな自意識になるのか、他人の眼差しはどう変わり、世界の見え方がどう変わるのかを、体験しないで死ぬのは悔しいと思ったからです。あの膨らみがあったらきっと、もっと世界が親しく感じられるんじゃないか。
当時はすでに子どもが二人いて、恋愛は他人事になりつつあり、カップ付きキャミしか着なくなっていました。もはや乳房は異性を惹きつけるものでも子どもの食料供給源でもない(どちらの機能も十分に果たさないままその役目を終えた)ただのうすら肉となっており、だからこそ全ての意味を脱ぎ捨てた「自分のための乳」としての存在感を日々増していたのです。だったら、なりたい乳になりたい……しかし、費用面と手術への不安から、最終的にはありのままの乳で生きていくことにしました。

40代に入り、ハンキーパンキーの薄いパッド入りのレースブラに出会って骨がちな胸にフィットするおしゃれも楽しめるようになってからは、服の胸元がまっ平らでも気にならなくなりました。個人的な関係において欲望する誰かの前で裸を晒すこともなくなったし、世間が女性に向ける無遠慮な性的消費の眼差しから“圏外”と認定される年齢になったことも気持ちを楽にしました。見られることから自由になったのです。

思春期以降、この板型の体型をずっと引け目に感じていました。母も姉も豊かなくびれのある体型で、物干場に下がる彼女たちの下着からは、甘いような金臭いような女の人の匂いがしました。一体どんな変化が起きるのだろうとワクワクしていたのに、小6になっても何も起きず、担任のセクハラ教師の目の前で上半身裸で身体測定を受けさせられ「お前は口ばかり生意気で胸はぺったんこだな」と嘲笑されてトラウマに(一生許さない)。中学生になっても幼稚園の頃と何も変わらない自分の胸元を見て、どうやら自分はあっち側にはいけないらしいとショックを受けました。漫画やアニメに出てくる女の子の胸元には必ず、ぷりんと丸みを帯びた乳房がついています。リカちゃんにも、硬く滑らかな隆起がふたつあります。美術館の絵画や彫刻だってそうです。なのに、どうして自分にはついていないんだろう。修学旅行で目にした友達たちの胸元にも、ちゃんとあの美しい立体構造物がついていました。触ると柔らかいのかな? 重たいのかな? うつ伏せになったら痛いのかな、仰向けや横向きに寝たら肉が流れる感じがするのかな。走ったら揺れるし、屈んだら垂れ下がるんだろうな。立っても座ってもいつも腕の間に何かがある感じって、一体どんな風なんだろう? いいなあ。私も欲しいなあ。

20代になり恋人ができると「こんな胸で申し訳ない」と思っていました。裏表の区別をつけるためにかろうじて乳首がついているみたいな体ですみません。きっとがっかりだよね。だってそこらじゅうに「巨乳、爆乳」って文字や、豊かな胸の画像があふれているもの。
自分には胸の谷間は存在しないし腹部との標高差もほぼないので、そういう体つきの女性を見ると一体どうなっているのか珍しくて羨ましくて、目が離せませんでした。まるで指にはまっているキラキラのダイヤの指輪を見つめるみたいに、憧れと嫉妬の眼差しを乳房に注いでいたのです。彼女の胸に欲情する男の気持ちまで想像しました。いいなあ、そいつはあの素敵な構造物を好きなだけ見たり触ったりできるんだ。私はそんな無遠慮なことはできないのに。駅ですれ違ったおばあさんの胸元がたっぷり豊かだったりすると「ねえおばあさん、それもう使わないでしょ。一個私にちょうだいよ。半分に割って両胸につけるからさ」と、こぶ取りじいさん乳バージョンみたいな妄想までしていました。

なぜそんなに乳房に執着したのか。たぶん体が育つよりも先に、乳房に対する期待と欲望を学習して大きく育んでしまったからではないかと思います。幼い頃から繰り返し目にしたきれいな乳房像や、メディアを通じて頭の中に出来上がった「欲望する男の眼差し」によって、私は女である自分には当然それが、つまり丸くて柔らかな美しい乳房が約束されているものと思うようになっていました。だから一向にそれが出現しないのは、いわば約束の不履行で、とても不当なことに思えたのです。「あるべきはずのものがない! 当然与えられるはずの“乳らしい乳を持つ権利”が、私だけ奪われている!」という強烈な不全感と怒り、落胆。みんなに同じお菓子の箱が配られたのに、自分のだけ中身が入っていなかったような感じ。第二次性徴が遅かった私は、女の出船に乗り遅れて、最終便の三等船室で暗い水面に半分沈みながらかろうじて女の体を生きているような心持ちでした。

でも、中年になってやっと気づきました。その船主は何者なのか。誰が船室を振り分けているのか。海図は誰によって描かれ、14歳の冬にようやく初潮を迎えた私は、あの時どこに向かう船に乗せられたのか。船室を見回りに来るのは「欲望する男」で、私はいつもその眼差しに怯えていたけど、それは目の前の現実の男とも違う、脳内にインストールされた「架空の男の欲望」でした。色々な、本当に色々なことを経験しながら、私は少しずつその架空の男を殺していきました。そのトドメを刺したのが、あのコジマ先生の「理想的な乳腺ですね」だったのです。

私の乳は、外からは絶対に見えないところにその本質がありました。それが医師によってマンモグラフィ診断をする上での理想にかなっていると評価されたことにより、ついに私自身が性的な文脈から完全に自由な視点で自分の乳房をまなざすことができるようになりました。「私の乳房は、性的魅力に欠ける乳房だ」が「私の乳腺は、マンモで見やすい乳腺だ」に書き変えられ、その瞬間にあの脳内に住みついていた幻の男が消滅したのです。女船は沈み、海図は消え、暗く冷たい海は温かい浅瀬となって、私は船から降りて自分の足で立っていました。

第二次性徴が始まってから35年。自分の体を取り戻すまでにこんなにも長い旅路となるなんて。コジマ先生の言葉で成仏したのはあの脳内の幻の男と、裸で俯いていた痩せっぽちの少女でした。その子そっくりな骨がちな体を抱きしめて、もうすぐ私は閉経します。あと数年で、丘から海を見晴らすことができるでしょう。

写真/Shutterstock


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