パリに来てからヒールは履かなくなった。大学院内は平和でも、パリの治安は油断ならない。万が一なにかあった時のことを考えて、走って逃げられる靴、と考えてしまう。
おしゃれもほとんどしなくなった。二十歳の誕生日プレゼントに親からもらったブランド時計も、引き出しにしまい込んだまま使っていない。アジア人はスリに目を付けられやすいし、ブランドものを持っている学生をほとんど見かけないので気が引ける。
化粧も周囲に合わせてどんどん簡略化し、良くてマスカラかアイラインのみのポイントメーク。日本で毎朝しっかりファンデーションを塗っていたのが嘘みたいだ。
パーティーや特別な機会に、思い切りおしゃれして楽しもう! そう思いながら、華やかなイベントに顔を出すこともなく一年が過ぎ去っていた。
「ボン・ウィーケンド!(良い週末を)」
水道管らしきL字型チューブを片手に、シャルロットは去っていった。
「ごめんごめん、話し込んじゃって。彼女、週末はよくここに来るらしいよ」
ギヨームは今さっきまでとは違い、突然ゆっくりした話し方になった。
私と話すときは「外国人向けおしゃべりモード」に切り替えているんだ……その優しさが、急にツラい。
「その木材、どうしたの?」
「いや、別に……」
安易な閃きが恥ずかしくなって背中に隠すと、ギヨームは不思議そうに首を傾げた。
「必要なら一緒に買うよ?」
「なんでもないの、本当に。ちょっとなんていうか、あの、あれで……」
もごもごごまかしながら、私はギヨームと口喧嘩すらできないのかも、と哀しくなってくる。日本語でさえ言葉を探すのが下手なのに、フランス語でまともにぶつかりあうことなんてできるだろうか。
まごつく私に助け舟を出すように、ギヨームが話題を変える。
「そうそう、おすすめのレストランも教えてもらったから、ランチに行ってみない?」
「……ごめん、今日は帰る。課題があったの思い出した」
ギヨームにくるりと背を向け、ひとりで木材コーナーに引き返す。杖のように握りしめていた角材をそっと戻すと、泣きたくなった。
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金曜の夜、大学時代の女友達が泊まることになって、紹介したいから三人でランチしようと言い出すギヨーム。
<新刊紹介>
『燃える息』
パリュスあや子 ¥1705(税込)
彼は私を、彼女は僕を、止められないーー
傾き続ける世界で、必死に立っている。
なにかに依存するのは、生きている証だ。
――中江有里(女優・作家)
依存しているのか、依存させられているのか。
彼、彼女らは、明日の私たちかもしれない。
――三宅香帆(書評家)
現代人の約七割が、依存症!?
盗り続けてしまう人、刺激臭が癖になる人、運動せずにはいられない人、鏡をよく見る人、緊張すると掻いてしまう人、スマホを手放せない人ーー抜けられない、やめられない。
人間の衝動を描いた新感覚の六篇。小説現代長編新人賞受賞後第一作!
撮影・文/パリュスあや子
第1回「私たち、付き合ってるのかな?」>>
第2回「カワイソウなガイコク人を助けてくれる友達が欲しい」>>
第3回「したあとは、煙草、吸いたいんじゃない?」>>
第4回「「パリに何しにきた? 恋人探しか?」」>>
第5回「私は踊り方なんて知らない」>>
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