辺境の地だからこその良さ
2020年5月に初めて飯田・松川エリアを見つけて8月には引っ越しを完了、というスピード感だったそうですが、移住前に周りの友人たちに報告すると、思いもよらぬ反対に遭ったそう。
「そこまで詰めた細かい計画もなくポンポン進めて、仕事も決めずに“住んだらどうにかなるでしょ”という感じで行こうとしていたので、特に男の人たちには心配されました。みんな深刻になって会議になってしまったほど(笑)。仕事もない状態で、住み慣れたコミュニティを出るということが信じられなかったようです」
しかも移住を決めた飯田市は、東京から車で約4時間という距離。新幹線の最寄り駅がないため、都市部へ出るには車か高速バスを使うしか方法はありません。友人たちには「行きづらい所に住むんだね」と言われたそうですが、逆にMioさんはそこが気に入ったそう。
「名古屋や京都、長野も新幹線が通っているのですぐ行けますが、そういう場所は簡単に手に入ってしまう気がして。飯田は辺境の地で友達もなかなか来られなくて、そこがまた良かったんですよね。街を抜けると山と川しかなくて、人間は自然に太刀打ちできないって死を覚悟するような山が立ちはだかっていて。容易に入れなくて車でもドキドキしてしまう。私は風の谷と呼んでいますが(笑)、閉ざされているような感じがして、独特の空気が流れています」
移住によって変化した家族の生活
果樹園での就職を考えていた息子さんは、移住前に無事働き口が決まり、移住した当時は受験生だった娘さんも半年後には晴れて長野県内の高校に合格しました。ですが娘さんは、移住においては少しだけ我慢したそう。
「娘は鎌倉生まれの鎌倉育ち。根っからの海っ子で、毎日学校帰りに海で泳ぐような子だったので、山方面への移住は少しかわいそうでした。でも“これまでママは一生懸命やってきただろうから、少しの間こっちの生活に付き合ってあげる”と言ってくれて。だから今はここで楽しめることをしようって切り替えて、山遊びや雪遊びをしています。新しい友達もできたので学校生活は楽しんでいるようですが、それでもやっぱり2ヶ月に1回は鎌倉に帰っていますけどね(笑)」
お菓子屋としての活動が地域住民からの信用に
一方のMioさんは、鎌倉を離れる時点で自身のお菓子工房は閉め、気持ちが農業に向いていたこともあって、もうお菓子屋はやらないのかなという勢いでした。しかし就農経験もなく、年齢も40歳を超えていたため、無農薬栽培をやっている理想の果樹園を見つけても働かせてもらえません。そんな折、移住者と住民の歓談イベントで出会った地元のカフェ経営者に「あなたには農業は向いてないよ。飯田にはお菓子屋がないんだから、絶対お菓子をやった方がいい」と促され、自然とお菓子作りを再開することに。やがてその方が経営するシェアカフェやイベントに出店し、お菓子を販売するようになりました。
「以前は表に出ることなく活動していたので、人前に出て販売するのは初めてでしたが、これもご縁ですよね。新参者がひとり家に閉じこもってお菓子を作っていても、お客さんなんて来ないじゃないですか。ありがたいことにこの1年で新聞やテレビにも出させていただいたので、飯田では少しは有名になって(笑)。こちらの方は“どこの誰”という素性がしっかりわからないとダメなようで、今は私が“Mio's BakeのMioさん”ということがわかっているからみんな来てくださる。新聞効果で年配の方も知ってくださって、それが近所の方たちの信用につながりました。そこはお菓子に助けられましたね」
以前住んでいた鎌倉は比較的フレンドリーな人が多かったそうですが、飯田に引っ越してからは、なかなか相手の表情が読めずに苦労したそう。
「最初は喜んでいるのかどうかわからないことも多くて、でも2、3回会うと距離が近くなるというか、急に変わるんですよね。今では私がお菓子を販売していると、頑張れって会いに来てくださる方も多くて。それがここでの原動力にもなっています」
次回は移住から1年半が経ったMioさんの今と、南信州の住み心地について伺います。
取材・文・構成/井手朋子
前回記事「「自分の人生を人に預けない」東京から淡路島に移住して気づいた新たな生き方」>>
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