現在のK-POP​界に大きな影響を与えた存在。そしてその頃日本では……


90年代前半の日本では、EAST END×YURIの『DA.YO.NE』や小沢健二 featuring スチャダラパー『今夜はブギー・バック』がヒットしていました。20代前半だった私の認識では、「渋谷とかでよく遊んでいる人たちがちょっとゆるい感じで歌っている歌」。歌詞も恋愛や男女のあるあるがテーマでした。小沢健二のアルバム『LIFE』を熱聴していたので、『今夜は…』には当時の気だるく切ない東京の夜の空気を感じたりもしていました。

入社してすぐに仲良くなった先輩が日本語のラップの熱烈なファンで、RHYMESTERの『Egotopia』というアルバムを勧められて、一緒にライブも見に行きました(のちにRHYMESTERの宇多丸さんとはラジオで共演し、家族ぐるみのお付き合いに)。それ以降はDragon Ashなどを聴いていました。今もアメリカのヒップホップアーティストの曲はよく聴いていますが、その真髄を理解するまで聴き込むには至っていません。

BTSと出会い、彼らの音楽がなぜヒップホップに根ざしているのかを少しずつ知るようになってから、改めてヒップホップとそれを必要とする社会についてや、ソテジワアイドゥルが韓国社会においてどのような存在であったのかを知ることとなりました。そして、かつて私が出会った韓国の若者たちにはどんな風景が見えていたのかも。

韓国音楽界にとって大きな役割を果たしたと語り継がれるソテジワアイドゥル。写真/アフロ


韓国は87年に軍事政権から民主化を果たしました。94年、ソテジワアイドゥルは南北統一を願うメッセージを込めた表題曲を含むアルバム『渤海を夢見て』を発表して、ミリオンヒットに。95年に発売されたアルバムでは、収録曲『時代遺憾』の歌詞が国による検閲の結果、削除されました。これによって、民主化を果たしてもなお独裁政権時代の制度が残っていることを問題視する声が国民の間から上がり、歌詞検閲制度が廃止されるに至ったそうです。

その頃私は、流行りの日本語ラップの曲に、東京の若者の恋愛模様を重ねて聴いていました。人気の曲は社会への抗議や反発のメッセージではなく、あの時の東京の空気を切り取ったスケッチのようなものでした。それは私の目が、そのようにしか世界を捉えていなかったことの表れでもあります。当時の私はまだ、自分がその後の長い不況と格差社会の入り口に立っていることを知りませんでした。慣れ親しんだ右肩上がりの社会がこの先も続くと思っていました。入社した放送局で、一体自分に何ができるのかもわからないまま、お祭り騒ぎのテレビスタジオで飛ぶように日々が過ぎていったのです。

2022年の私は、海を隔てた二つの国の若者たちが見ていた当時の風景の違い、そして聴いていた音楽に重ねた想いの違いを思いながら、BTSを聴いています。あれから30年、いろいろなことがありました。韓国でも日本でも社会は大きく変わり、まだ変わっていないこともたくさんあります。懐かしいあの人たちはどうしているだろうかと、心に浮かぶのは学生の時に行った韓国の思い出です。

 


93年9月、当時大学3年生だった私は、ゼミ旅行で韓国に行きました。釜山から入り、チョナン市の独立記念館を訪れ、ソウルで1泊ホームステイをして、軍事境界線の38度線、板門店へ。

現地の大学生との交流では、自分がとても幼く感じられました。釜山の学生から「日本が韓国にしたことをどう思っているか」と訊かれた時には、言葉が見つかりませんでした。自分にとっては「教科書に載っている昔のこと」が、彼の中では現在形なのだということに戸惑い、深く恥入る気持ちになりました。

ソウルでは、延世大学の学生たちと夜遅くまで話をしました。今もSKY(ソウル大、高麗大、延世大)と呼ばれる名門大の一つです。同い年の学生が真剣な顔で「日本に留学してからアメリカに留学し、帰国したら兵役に行き、将来は南北統一を果たすのが目標だ」と語るのを聞いて、自分には個人的な目標だけで、社会をどうしたいという視点はなかったことに気がつきました。当時の韓国の学生が全員そうだった訳ではないでしょうが、エリート層の中にはそのような使命感を持っている若者もいたのですね。今は南北統一への思いも違うでしょうし、留学するなら直にアメリカに行く学生の方が多いでしょう。