血も涙もない? 離婚を切り出された「最悪すぎる」タイミング


信頼関係は、一度崩れると、一気に悪い方向に行くことが多いもの。そのあと冴子さんはアンソニーさんに激怒、言うべきでない言葉の応酬がありました。

「『僕は冴子に日本に誘拐されたようなものだ。楽しかったタイでの生活を返して!』『40にもなった冴子にはわからない。自分だって20代の頃はやりたいようにやってただろ? 僕と不倫しといて、今更いい子ぶるなよ』。この言葉は生涯、忘れることはないと思います。それを言っちゃあ、おしまいよ、です。泣いて、泣いて、涙も枯れましたが、自業自得、身から出たさびだともう1人の自分の声が聞こえます。私、こういう時にも客観的になってしまう、可愛げのないところがあって。もっと素直に拗ねたり、縋ったりすれば、また違う結論があったのかもしれませんね」

田舎で、4人兄弟の長女、努力家の秀才として育った冴子さん。

自由人で若く、まだまだ遊びたいアンソニーさんとの組み合わせは、哀しいすれ違いが起こるばかりでした。

結婚相手は価値観や育った環境が近いほうがうまくいく、とはよく言われることです。それだけ、価値観と生育環境の違いを乗り越えるのは、簡単ではないという教訓なのでしょう。

冴子さんが41歳のとき、ついにアンソニーさんとの間に離婚話が出ます。しかし、そのきっかけは予期しないものでした。

冴子さんのお父さんがご病気で急逝してしまわれ、今後は古く広い一軒家にお母さんが独居になると思われた、まさに葬儀の夜、アンソニーさんは離婚を提案してきたのです。

「今ならあの広い家に冴子も子どもも転がりこめるだろ? これで俺はいなくても大丈夫だよね。家賃の心配もいらないし、あっちのほうが冴子も安心だろ?」

むしろいいことを言っているようなテンションのアンソニーさんに、冴子さんはこの人とはいろいろ最初から見えているものが違うのだと悟ったと言います。

 

「彼の人生観は、私が抱く責任感のある父親像、夫婦で家庭を運営する、という考えとはかけ離れていた。それは悲しいけれど、究極的には仕方のないコトなんですよね。そして私が、精神的・経済的支柱を夫に担ってほしいと思うのは、深掘りすると自分に自信がなかったから。自分を認められないから、養ってほしいし、誰かにいい妻だと言ってほしい。もがいていたんです。

でも、もう『男の人に承認して欲しいオバケ』になるのはやめようと腹がくくれました。自分を認めるのは自分でしかない。覚悟を決めたんです。家計だって、今までだって私のほうがなんだかんだ稼いできたのに、主たる生計者は夫であるべき、という自分が育った家をひたすら真似ておきたかった。でも、相手に縋るくらいならば自分で稼ごう。娘のために、強くなろうと思えました」

 

実は数年前にも、まったく別の取材でお話を伺ったことがある冴子さん。はっきり申し上げて、今回の取材では別人のように安定し、落ち着いた笑顔なのです。状況は、今のほうが厳しいというのに。

「あっちが言い出したことだし、すんなり離婚できそう、と思ったのがやっぱり甘くて。アンソニーは、どうやって育てるつもりなのか不思議なんですけれど娘の親権や、私有の財産、私が買った車、なぜか私が相続した少しばかりの父親の株券など、とにかくめちゃくちゃに権利を主張してきました。国際結婚なので、裁判で決着する必要があり、離婚には1年を要しました」

なんとか離婚が成立した翌日、彼はこっそりつきあっていた年下の日本人の彼女と同棲を開始したそう。「異国に誘拐された、とまで言ったのに、まだ日本に住むの!?」と冴子さんが思わずつっこんだのは言うまでもありません。

でも、もう冴子さんの目に恨みや怒りの色はありません。かつて占いを1日に3件も梯子するほど生き迷っていた女性と同一人物とは思えないほど。

「大丈夫、彼はこんなに可愛い娘を授けてくれました。それだけであとのことはもういいんだ、と思えます。これからは自分が自分を認めて、支えていきます。仕事だって、恥も外聞も捨てて周囲に相談したら、生計が立つようになりました」

ひとはいくつになってもやり直せるし、間違いを修正できるし、成長できる。冴子さんの変身は、そのことを証明しているようでした。

誰しもが持つ、弱さやコンプレックス。蓋をし続けるよりも、本気で向き合ってみると、もしかして少しだけ明るい場所に続く道が見えるのかもしれません。
 


取材・文/佐野倫子
構成/山本理沙
 

 

 

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