常に危機感は感じていました


──工藤さんのキャリアを振り返ると、1994 年に発売されたシングル『Blue Rose』からセルフプロデュースに挑戦されたことが大きな分岐点だったと思います。前年にリリースされた『慟哭』がキャリア最大級のヒットを記録していた状況で、楽曲制作の環境を変えるのは大きな覚悟が必要だったのでは?

工藤静香さん(以下、工藤):まさに分岐点でしたね。ずっと後藤次利さんという希代のヒットメーカーと一緒にやらせていただいていて、そこから離れて新しい自分を探すことにしたのは、自分でも大胆な決断だったと思います。当時、CDの売り上げで結果が出ても、それがずっと続くわけではないという危機感のようなものがあって。「変わるなら今しかない」という確信があったんですね……根拠はなくて、自分なりの勘ですけども。もちろん悩みましたし、覚悟が固まるまでは一人でずっとハラハラドキドキしていました。慣れ親しんだ環境を変えるのは誰でも大変ですよね。頭の中が運動会みたいでした(笑)。

 

——当時、工藤さんなら新たに優秀なプロデューサーを引っ張ってくることもできたはずですが、セルフプロデュースに踏み切った理由とは?

工藤:単純に、新しい工藤静香を作る責任を、自分以外の人に責任を負わせたくなかったんです。他の人にお任せするのは、重すぎるだろうと。もちろん作家さんやディレクターさんとチームを組んで楽曲を作るわけですが、自分が前面に立つことで、どんな結果になっても自分で責任を取りたかったんです。

 

——自分の人生を自分で背負う意思の強さや、自分自身に対する自信は、ソロデビュー前から培われていたのでしょうか?

工藤:自信? 自信なんてまるで全然なかったです。挫折感のほうが多い10代でしたから。セブンティーンクラブの頃は右も左も分からない子どもでしたし、おニャン子時代も自分の未熟さを痛感することが多かった。可愛い子がたくさんいる中で、私は歌が上手いわけでもなく、センスがいいわけでもなかったので。ソロとして初めてのアルバム『ミステリアス』(1988年1月発売)を出した頃に、ようやく一人でやっていく覚悟が固まりました。それからも、常に何かの危機感は感じていました。そして新しい自分を求めていました。