「相手の立場になってみる」という基本的なこと

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常々思うのですが、同じ社会で生きているのに、お互いが置かれている立場や価値観を培ってきた時代背景の違いを知らなさすぎるんです。若者が昭和を知らないように、昭和を生きてきた人たちは今の若者の価値観がどうやって培われているかを知らないんですよね。

筆者は最近、今の50~60代が若者の頃、残業しない、飲み会を嫌うなど、上の人たちからは理解できない「新人類世代」と言われていたことを知りました。いや、今の若者と同じじゃん、と思って。お互い全然違う生き物、みたいに思っているけど、結局は同じ人間。本質的な部分では通じる部分があるはずで、そこを見つめるほうが大事だと感じます。

ちなみに『不適切にもほどがある!』でも、秋津くんと加賀ちゃんは話し合うことで本音を知り、関係を修復していきます。お互い「どうせ違う人間」みたいに決めつけるのではなく、対話を諦めないことが大切なのではないか、と思います。

 

「どうせ違う人間」と諦めないで、本質的な部分を見つめる

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正直、『不適切にもほどがある!』は現実では昭和的な価値観は「古い」と一蹴されるから、ドラマの中だけでも「昭和の極論」が今の若者に刺さる・響くみたいな昭和ドリームをやりたいのかなあと感じる部分があって、ちょっとダサいな、と思ってしまう自分もいるのですが、昭和世代の人の立場になってみると、自分たちが生きてきた時代を否定されるのは確かに辛い(でも、決して昭和が全否定されているわけではなく、人権が無視されていた部分、マイノリティが踏みつけられていた部分などが批判されているのでしょう)。

20年後、今の令和ベイビーたちが若者になったころに、平成生まれは古い! なんて言われたら、悲しくもなるし、時代の変化を茶化して、「昔は良かった」なんて言いたくなるのかもしれません。でも、やっぱり、若者ではなくなった時に、自分たちの時代の過ちは潔く認め、時代の反省を生かし、変わるべきは変わり、若者の意見を聞ける大人になりたいな、と思います。


文/ヒオカ
構成/金澤英恵
 

 

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