やめたいならやめてもらって構わないんだよ。どこのクリニックでもたいして変わらないよ、という言葉が喉まで出かかるが、それは絶対に口にできない。スムーズな施術を受けてもらうために、今のスタッフ体制に自分がどれだけ心血を注いだか。それをまた、一からやり直すのかと思うと、軽いめまいを感じた。彼女は押し黙ったままだ。伏せた目のマツエクのボリュームが彼女の若さを物語っている。
「ねえ、もうこのあと、患者さんの予約もないし。少しお酒でも飲まない? ゆっくり話もできるだろうし」
「先生、私、仕事以外で職場の人と時間を過ごすの嫌なんです」
 ああ、そうだった。彼女はそういう世代だった。自分ははっきり昭和の人間なのだと思い知らされた。それに今日は休日前だ。何か予定があるのかもしれない。三十三歳の成宮さんなら、無理をして短時間でも私につきあったかもしれない。けれど二十八歳の彼女にはそういう手は使えないのだった。もう幾度もしている失敗をまた、繰り返してしまった。
「じゃあ、今日はもう帰っていいよ。あとは私、一人でできるし。詳しい話はまた、後日、ゆっくり聞くね。成宮さんにも今日はもう帰っていいと伝えて」
「はい」と小さな声で答えたあと、下田さんは部屋を後にした。
 両手を組んで、頭の上に上げ、ぐっと伸びをした。お酒を飲みたい、と思っているのは自分なのだ、と、はっきりわかった。そう思ったのに、自分には「ねえ、今日、一杯飲まない?」と言える友だちがいない。昔から友人は多いほうではなかったが、友人と過ごすことの楽しさよりも一人でいることを望んでしまう自分もいるのだった。駅近くのホテルのバーで一杯だけ飲んで帰ろうか、そんなことを誰もいないスタッフルームでぼんやりと考えてもいた。
 午後五時半になって残りの雑務はもう家でやろうと、カルテや大量の資料をバッグに詰めて、クリニックを飛び出した。しばらく歩くとデパート併設の劇場が見えてくる。どうやらバレエの公演があるようだ。一瞬バレエでも見ようか、と思ったものの、当日券を買う人たちが列をなしている。それならば、美術館のほうに行こうと、エスカレーターで地下に降りた。佐藤直也に言われた、美しいものを見なさい、という言葉も頭のどこかにあった。『ピーターラビット展』のポスターが至るところに貼られている。佐藤直也はこんな展覧会は絶対に見ないだろう、と思いながらも、自分には理解不可能な芸術を見る気分でもなかった。ウサギの絵なら、大量に見ても肩は凝らない。今日の気分にふさわしい。そう思った。入館は午後六時まで、と言われ、慌ててチケットを購入した。
 子どもの頃に手にしたことがあるような気がするが、ピーターラビットの本をちゃんと読んだことはない。息子に買ったこともない。閉館時間が迫っていたせいもあるが、私はひとつひとつの絵に足を止めることもなく、流れるように歩いた。人は数えるほどしかいない。