コロナという未知のウイルスへの恐怖、一人ひとりに責任がのしかかった自粛要請。高い緊張状態は夏になった今もなお続き、日々の不安は尽きることはありません。ウイルスそのものはもちろん、コロナ禍の「他人の目」が気になるという人も少なくないはずです。

普通の暮らしすら萎縮させてしまう自粛警察による圧力、熾烈化するバッシングなど、コロナの二次被害ともいえる現象はなぜ生まれてしまうのでしょうか。作家の鴻上尚史さんと、世間学などを専門とする学者の佐藤直樹さんの共著『同調圧力 日本社会はなぜ息苦しいのか』によれば、日本独自の「同調圧力」が原因だと言います。未曾有のコロナ禍、冷静さを取り戻すための一助となる本書から、対談の一部を特別に抜粋してご紹介します。(本文中敬称略)

 

鴻上 2020年の前半はコロナ禍によってさまざまな風景が現れました。「自粛警察」「マスク警察」といった言葉に代表される、監視や排除の心情、あるいは差別と偏見。そうしたものが一気に炙り出されたと思います。なかでも、より分かりやすいかたちで可視化されたのが、日本社会の同調圧力だったのではないでしょうか。コロナが怖い、確かにその通りなのですが、それ以上に、何かを強いられることが、そして異論が許されない状況にあることが、何よりも怖い。

 

佐藤 もちろんどこの国も極限状態にありますから、それなりに同調圧力はあると思います。けれども程度のひどさという点で、日本は突出している。海外ではコロナ禍にあっても、ロックダウン反対などの大規模なデモがくりかえされるわけです。堂々と国の方針に逆らい、異論をぶつける人も少なくない。日本はどうでしょう。「ルールを守れ」「非常時だから自粛しろ」といった多数の声、つまりは同調圧力によって、異論が封じられています。感染者のプライバシーまで暴かれる始末です。

鴻上 日本では欧米のような「命令」も「ロックダウン」もありませんでした。市民に対しては「外出自粛」、商店や企業に対しては「休業要請」です。ある意味、ゆるい。ゆるいけれども、多くの人びとはそれに従い、従わない者が白眼視されていきます。「空気を読め」といった感覚に支配されています。

佐藤 海外、特に欧米は厳しい対応をしました。外出禁止命令を出し、マスクの着用も義務付け、違反に対してそれなりの罰則を設けた国も少なくない。法を整備し、ルールをつくり、罰則も定め、しかし、同時に補償も用意するわけです。命令と補償がセットになっています。しかも、政治指導者がそれなりに国民に語りかけ、納得を得ようと努力した。

鴻上 政治指導者には指導者としての「言葉」がありましたね。演劇の演出家から見ると、自分の言葉で話しているという説得力がありました。しかし日本の場合は……。

佐藤 日本は強制力もなければ補償も明確でない「緊急事態宣言」です。「自粛」と「要請」ばかりで、海外からも「ゆるすぎる」といった批判がありました。でも、日本ではこれで充分なんです。罰則がなくとも、人びとは羊のように大人しいし、従順にこれを受け入れる。

鴻上 「要請」ですから、最終的に政府は責任をとらなくてもよいわけです。イギリスでも当初、政府は劇場の休業を「要請」したんです。でも、イギリスの演劇人たちは、それでは補償の対象にならないから、はっきりと閉鎖の命令を出してほしいと声を上げました。これに対し日本は責任を国民に押しつけるシステムです。

佐藤 しかし、それが意外とうまく機能してしまう。それを「民度」が高いと考える人もいるのかもしれませんが、実際は、「周囲の目の圧力」、つまりは同調圧力がきわめて強いからですよ。強制力のない「自粛」や「要請」であっても、それを過剰に忖度し、自主規制する。まわりが「自粛」し「要請」に従っている場合、それに反することをすれば、「空気読め」という圧力がかけられます。圧力は人びとの行動を抑制するだけでなく、結果として差別や異質な者の排除にも発展していく。